「死」というもの


 朝、道のきわに動物が横たわっていました。死んでいるようです。タヌキかな、アナグマかな。近寄ってみると、顔の真ん中が縦に白く、体全体は茶色っぽい毛です。ハクビシンという動物です。頭から尻尾の先まで80センチくらいあります。車にはねられたのだろうか。毎朝いっしょに散歩している犬のランは頭を低くし、警戒感100という感じでそろそろと近づきます。すぐに飛びのける体勢をつくって鼻を働かせています。ランがそれ以上ハクビシンの身体に接触しないように、ぼくはリードを引いて観察しました。動物の死骸はなんだか気味がわるい。この死骸をかたづけようと素手で運ぶとなると、少しいやな感じです。手袋をはめたら運べるかなと思ったりしていたら、すぐ下の畑のおばさんがやってきました。「いやだね」と言いながら、おばさんは家族に連絡しに行きました。
 死体を見ると、いやだなと思ったり、気味悪くなったり、こわくなったりします。どうしてそう感じたり、思ったりするのかな。
 バッタやハチ、トンボなど小さな生き物の場合、死んでいてもそれを手のひらに乗せたりつまんだりしても、平気です。アリになると、もっと平気です。ところが、野生の小鳥が死んでいるとちょっと気味悪さが出てきます。生きてさえずっているときは、かわいいなと思うのに、死体になると、抵抗があります。それでも羽を指でもって運ぶことはできます。怖くはありません。家で飼っていたにわとりが死んだとき、脚をもって運び出しましたが、かたくなって動かない体に、いつもとちがう感情がわいてきます。生きていたときは、体にさわると温かかった。元気な声をだして鳴いていたし、えさを食べていた。それが「死体」というものに変化している。それを手でさわるのはいい気持ちがしません。「死体」にさわることを心が受け入れるとき、心がかたくなるのです。それが「死」というものです。かわいがっていたネコや犬が死んだら、悲しみでいっぱいになります。そして、冷たくなってかたくなり、目も開けないネコ、犬に、「死」というものを感じます。もうほっぺをくっつけたり、だっこしたりすることができなくなります。そのときの心の状態はどんな状態でしょう。
 ところで、魚はどうでしょう。昆虫のような小さな生き物と同じように、魚にたいしても「死」を感じないし、気味悪くありません。食べ物のチリメンジャコ、干物、するめ、一匹まるごとのイワシやサンマ、どれもなんの抵抗もなく、お店で買ってきて食べている。おすしの魚は生のまま食べています。全く平気、おいしいです。食べ物になったものには「死」を感じません。それは食べ物だからです。これは「死体」だと思って食べる人はいません。お肉もそうです。
 人間の食べるものは、みんなもともと生き物でした。牛肉、豚肉、鶏肉、魚、牛乳、野菜、米、みんなもともと命のあったものでした。パンは小麦、しょうゆは豆、加工されたものも、生き物の体からできています。
 人間という生き物は、地球上の何千何万の生き物の命を食べ物にして、生きています。
 けれども、人間は生きているから、「死」を恐れ、「死」に対する警戒感があります。「死んだ物」を気味悪くも感じます。生きている人の「死」には、いちばん「死」を心に感じます。
 人間の心にある「死」にたいする気持ちは、自分が生きているから感じる、複雑な感情です。