加美中学校41期生・奇跡の同窓会

 仕事が何であれ、地位や肩書きが何であれ、学校で勉強できたとかできなかったとか、やんちゃだったとかおとなしかったとかも関係なし、我が身にまとっているものをかなぐり脱ぎ捨てて、裸の直の心になる。それが同窓会のよさでもある。
 久しぶりに出会った同級生と話に夢中になっているみんなの笑顔がよかった。仕事で神経をすり減らし、子育てで疲れ、ストレス多い生活の人たちも、この場ではそれを放して、昔の友だちと気楽に別天地をつくる、それが同窓会だ。
 マキちゃんたち6人の発起人はそういう同窓会をやりとげた。名簿、住所録何もかもゼロ、ゼロから出発して、口コミだけでこれだけの同窓生を集めたマキちゃんたち世話役は、同窓会の時間帯も裏方の運営に徹していた。
 同窓会というものは開放的な性格であるにしても、おしゃべりのペアや輪のなかに入っていきにくい人もいる。社交的でない人、あるいは重い現実があって、心が硬くなっている人もいる。もっと時間があれば、その横に座って、扉をとんとんたたいてみたかったと思う。そこにいささか悔いも残る。
 同窓会が終わり、同僚のもう一人の参加者、浅田先生と別れてからぼくは地下鉄に乗って、マートの家に向かう。マートの家は、大阪市周辺部の下町の中でも下町で、マンション6階にある。
 家に入ると、ミノル君とマサコさんが来ていた。マートは矢田中の卒業生、ミノル君とマサコさんは矢田南中学の卒業生で同級生結婚、マートの奥さんのエミちゃんとマサコさんが、鍋料理の準備をしてくれていた。ミノル君以外は3人とも現職の小学校教員だ。ここでもよくおしゃべりをした。学校現場がますます厳しくなっていることを実感する。教育行政は、現場の教師たちの置かれている困難さを認識せず、トップダウンで教師たちを生き生きと実践できない方向へと追い込んでいることに暗澹とする。
 マートは相変わらずよく勉強していた。マートは2冊の本を見せてくれた。
  「板倉聖宣セレクション いま、民主主義とは」(仮説社)
  「日本の戦争を終わらせた人びと」(中一夫 ほのぼの出版・仮説社)
 最近取り寄せたという。内容をぱらぱらと見てみて、これは読みたいとぼくも思った。
現場の教師たちの実践が痩せていっているとしたら、その原因のひとつは上からの教育行政のしめつけのなかにあり、同時にもう一方の教師の主体的な「創造としての学び」がきわめて乏しくなっていることにも原因があるように思う。
 翌日、マートとエミちゃんの出勤に合わせて一緒に出て、同窓会に来れなかったマサルと会うために待ち合わせ場所に行った。地下鉄駅前の横断歩道を歩いていくとやってきた自転車の男が、「センセイ」と声をかけてきた。マサルだった。25年ぶりなのに、遠くからすぐに分かったと言う。そこからマサルの7年先輩になるシンジ君の家を向かう。歩きながらマサルはよく話した。中学時代はまともに話したことがなかった彼には、ガキ大将の片鱗はもう見られず、穏やかな男に成長していた。
 シンジは再婚して、奥さんと眼の見えないコーギー犬と暮らしていた。スーパーつっぱりだったシンジも、飲み屋の店をもち、その上に自分の家を自分で造って住んでいた。
 彼との話もおもしろく、人間の成長を考えさせるシンジの姿があった。シンジの奥さんも一緒に入って2時間、人生論、社会論、教育論、話は変幻自在だった。
 ぼくは午後は信州へ帰る。シンジはおいしいパン屋のクロワッサンやチーズケーキ風のパンなどを用意していて、ぼくに持たせてくれた。
ぼくはそれを新幹線の列車の中で食べた。