ツグミの水飲み

 庄野潤三のエッセイに、「つぐみに学ぶ」という短文がある。
 庭の木陰に水盤がある。そこへ小鳥たちが水を飲みに来る。その水は、奥さんが毎朝井戸からくんできて入れ替えている。その文章の一部をここに載せるとするか。
 「うぐいすなんかは、二口くらい飲むと、すぐに飛び立つ。もっとゆっくり飲めばいいのにと思うが、ひとところにじっとしていない鳥だから、仕方がない。
 つぐみは、いつも一羽で来る。これはよく飲む。ひと口飲み、またひと口飲み、またひと口飲むというふうにして続く。
 急がず、あわてず、よそ見せず、いつやめてもさしつかえないといった様子で飲む。
 水盤から顔を上げた拍子に、どうかするとくちばしのあたりで雫が光る。
 或る時、数えてみたら八回飲んだ。それから少したって、別の日に、もう一度数えてみた。今度は八回を通り越して、十五回まで行ったので、びっくりした。
 途中で私は何度も、
 『もうこれでやめるかも知れない』
と思ったが、その度に外れた。
 ところが、それだけ飲みながら、物をむさぼるというふうには見えない。むしろ、つぐみの飲んでいる水のごとく、淡白な趣がある。
 『うまい酒というのは』
と私は考えた。
 『あんなものだろう。特別に何かを飲んでいるというのでなくて、ごく自然に、つぐみののどを通るような具合に入っていくものだろう、終わるときが来るまでは』
 いつでもやめる、やめてもいいんだという心持で、これから先も無事息災に酒を飲みたいものである。」

 ツグミの水の飲み方から、いつのまにかスルリと自分の酒の飲み方に移行している。「ところが、それだけ飲みながら、物をむさぼるというふうには見えない。むしろ、つぐみの飲んでいる水のごとく、淡白な趣がある。」という二文でその移行が起こっている。前の文はツグミの水飲み、後の文は自分の酒の飲み方、実はこの文章全文の初めに、
 「いちばんおいしい酒は、その印象が水に似て来るというが、そうかも知れない。」
という文がある。
 ツグミが水を飲むように、そんな酒を飲みたい。酒に縛られず、ごく自然に、いつやめてもよい、終わるときが来ればさっぱりと終わる。
 ところで、ツグミの観察がなるほどと思う。我が家に来るツグミも一羽でやってくる。水の飲み方はまだ見たことがない。
 3年ほど前、小鳥の水飲み場にちょうどの水盤を見つけた。散歩道の途中にある空き家の草むらに、裏返って捨てられている白い陶器だ。これをもらって、我が家の庭に置いてやれば、小鳥たち水を飲みに来るだろうなと思いながら、黙ってもらってくることに抵抗があってそのままにしてある。今朝もそれがそのままそこにあった。空き家だからその家の主がいない。近くに住んでいるカカシのオッチャンに聞こうと思いながら、実行していない。「かかしのオッチャン」というのは、自分の畑のあちこちに案山子を立てるのが好きだから、我が家ではそう呼んでいる。近々それを実行して、小鳥たちの水の飲み方を観察しよう。