エロシェンコの親しい友だった秋田雨雀の童話「先生のお墓」

 秋田雨雀(1883年〜1962年)はワシーリィ・エロシェンコの親しい友であった。
 エロシェンコと同じように秋田雨雀の父も盲目だった。二人の出会いは大正4年の春、苦しい劇団運営のため絶望的になっていた秋田は、盲目でありながらエスペラント運動に献身するエロシェンコに打たれ、深い交流を持つようになる。秋田33歳、エロシェンコ26歳であった。秋田はエロシェンコからエスペラントを学び、影響を受ける。戯曲をはじめ数多くの詩、小説、童話、随筆、評論などを書き、劇作家、舞台芸術家としても活躍した秋田雨雀は、日本の児童文学の先駆者でもあった。

 秋田の作品に「先生のお墓」という心に残る童話がある。
 「わたしたちの大好きな先生のお墓は、町はずれのさびしい丘の上の墓地にあります。」と物語は始まる。
 大島先生が学校に来られたのは尋常科3年生のときだった。先生はやせていて、なんとなくなつかしい感じがした。はじめての授業、先生は白墨で黒板に大きな円を描いた。
 「これはなんですか」
 先生は笑っている子どもたちに順に意見を言わせていった。
 「まるです」
 「お日さまです」
 「お月さまです」
 「かがみです」
 「おだんごです」
 先生は、静かに言った。
 「そうです。あなたがたの答えは、みんなほんとうです」
 そして先生は、
 「これはちきゅうです」
と言って、それから読本の授業に入った。「わたしたち」は大島先生に1年間だけ教えてもらい、その後大島先生は高等科の受け持ちになった。
 3年目の冬に、わるいうわさが立った。
 「大島先生は、たいへんわるい人だってさ」
 わたしたちは、
 「そんなことはみんなうそだ」
と、うわさを信じなかった。けれども先生の表情は次第に暗くなっていった。その翌年、先生は学校をやめることになり、子どもたちにあいさつをした。
 「わかれをつげなければならないことを、たいへんかなしく思います。しかし、わたしはまた今日から諸君とひとしく一人の学生になることを、愉快に思います。諸君はまだ人生について知らないことだらけです。わたしもまだ、人間について知らないことばかりです。わたしが諸君と別れるのは、自分をもっとよく知りたいためです。わたしの胸を開いて、諸君に知らせたいことをたくさん持っています。しかし、それはわたしにできないことです。諸君は、諸君自身でそのことのために、お苦しみになるまでは、どうすることもできません。わたしのようなものを愛してくださった諸君に深くお礼を申しあげます。」
 それから三年目、先生は東京のさびしい下宿屋の一室で、結核で亡くなられたという知らせが耳に入った。先生のお骨は、遺言によって町の墓地に葬られた。
 先生のお墓は寂しい丘の上にあり、墓地のかたすみにポプラとアカシアとプラタナスが生えていた。だれもかえりみないみすぼらしい、棒杭だけの墓だった。一年たっても、二年たっても、石碑は立たなかった。
 あるとき、「わたし」はお墓に参った。すると、誰が持ってきたのか、まんまるい自然石がひとつお墓の真ん中にあった。その周りに平べったい石が三つ四つ置いてあった。「わたし」は丸い石を見ているうちに、先生が黒板に描かれた円い形のことを思い出した。
 やがてお墓に草が生え、大島先生の身体をやわらかい毛皮で包むように茂り始めた。萩の花や、ススキの穂が伸びてきた。
 「草萩の赤い花や、すすきの白い穂が雑草のあいだから背伸びして、ここにわたしたちの大好きな大島先生の眠っていることをつげているように思われます。
これがわたしの先生のお墓です。」
 こうして物語は終わる。この先生がどんな先生だったのか、悪いうわさとは何だったのか、この時代を考えれば察することができる。
 秋田雨雀は、1931年、日本プロレタリアエスペランチスト同盟の結成に参加している。