高村光太郎 <「落葉を浴びて立つ」>

山の黄葉・紅葉が里山まで下りてきた。里の道沿いに立つケヤキも葉をいっせいに落とし始めた。毎朝、落葉かきをしている人の姿がある。気温が零下になり、ある日、一夜にして葉をすべて落としてしまうという木は徳沢園の桂の大木だった。
高村光太郎に「落葉を浴びて立つ」という詩がある。長い詩で、11月を歌った詩である。
光太郎が、清浄に晴れた日の昼、「無用のもの入るべからず」と書かれた立て札に止まっている赤とんぼに挨拶しながら、家近くにある三千坪の廃園の桜林にもぐりこむ。そこは好んでよく行く桜園だ。落葉が降る、降り積もる。降りしきる落葉も、降り注ぐ太陽も、有り余るほどあることの感動を光太郎はこの詩で詠った。その一部分。
 
     ああ、有り余ることのよさよ、ありがたさよ、尊さよ、
     この天然の無駄づかいのうれしさよ、
     ざくざくと積もって落ちるさびた桜のもみじ葉よ。
     惜しげもない粗相らしいお前の姿にせめて私を酔わせてくれ、
     勿体らしい、いじいじした世界には住みきれない私である、
     せめてお前に身をまかせて、くゆり立つ秋の日向ぼっこに、
     ‥‥ふんだんの美に身も魂もねむくなるまで浸させてくれ。


「粗相らしい」は、そそっかしい、「勿体らしい」は重々しく大層な。
光太郎は桜林を歩く。桜は不器用な太い幹をのばし、ゆるい曲線に千万の枝を咲かせ、微妙な網を天上にかけ渡す。ぱらぱらと落ち来る金の葉や瑪瑙(めのう)の葉。天然の心ゆたかな無造作に、光太郎は酔う。

     散るよ、落ちるよ、雨と降るよ、
     林いちめん、
     ざくざくとつもるよ。
     その中を私は林の魑魅(ちみ)となり、魍魎(もうりょう)となり、
     浅瀬をわたる心にさざなみ立てて歩きまわり、
     若木をゆさぶり、ながながとねそべり、
     又立って老木のぬくもりのある肌に寄りかかる。
     ――棄ててかえり見ぬはよきかな、
     あふれてとどめあえぬはよろしきかな、
     程を破りて流れ満つるは尊きかな、
     さあらぬ陰に埋もれて天然の素中に入るはたのしきかな――
     落葉よ、落葉よ、落葉よ、
     私の心に時じくも降りつもる数かぎりない金色の落葉よ、
     散れよ、落ちよ、雨と降れよ、
     魂の森林にあつく敷かれ、
     ふくよかに積みくさり、
     やがてしっとりやわらかい腐葉土となって私の心をあたためてくれ。
     光明は天から来る、
     お前はたのしく土にかえるか。
     今は小さい、育ちののろいこの森林が、
     世にきらびやかな花園のいくたびか荒れ果てる頃、
     うっそうとしげる陰となって鳥を宿し、獣をやどし、人を宿し、
     オゾンに満ちたきよらかに荒い空気の源となり、
     流れてやまぬ生きた泉の母胎となるまで。

     林の果ての枯れ草のなびく原を越えて、
     わりに大きく人並みらしい顔をしている我が家の屋根が
     まっさおな空を照りかえし、
     人なつこい目くばせに、
     ぴかりと光って私を呼んでいるが、
     ああ、私はまだかえれない。
     前も、うしろも、上も、下も、
     こんな落葉のもてなしではないか、
     日の微笑ではないか、
     実に日本の秋ではないか。
     私はもう少しこの深い天然のふところに落ち込んで、
     雀をまねるあの百舌(もず)のおしゃべりを聞きながら、
     心に豊穣な麻酔を取ろう、
     有り余るものの美に埋もれよう。

魑は虎の形をした山の神、魅は猪の頭をした人の形の沢の神、魍魎とは、水の神、山川の精霊。
廃園がいつかは天然の、豊饒の森にかえっていくことを、光太郎は願った。きらびやかな人工の造作物はいつか滅びるときがやってくる。だが、天からの贈り物は生命と魂を育てる森をつくる。天地の理である。高村光太郎は、生命の詩人であった。