高村光太郎「女医になった少女」


高村光太郎に、「女医になった少女」という詩がある。

        女医になった少女

    おそろしい世情の四年をのりきって
    少女はことし女子医専を卒業した。
    まだあどけない女医のひよこは背広を着て
    遠く岩手の山を訪ねてきた。
    私の贈ったキュリー夫人に読みふけって
    知性の夢を青々と方眼紙に組みたてた
    けなげな少女は昔のままの顔をして
    やっぱり小さなシンデレラの靴をはいて
    山口山のゐろりに来て笑った。
    私は人生の奥に居る。
    いつのまにか女医になった少女の眼が
    けむるやうなその奥の老いたる人を検診する。
    少女はいふ、
    町のお医者もいいけれど
    人の世の不思議な理法がなほ知りたい、
    人の世の体温呼吸になほ触れたいと。
    狂瀾怒涛(きょうらんどとう)の世情の中で
    いま美しい女医になった少女を見て
    私が触れたのはその真珠いろの体温呼吸だ。


光太郎は、戦時中たくさんの戦争詩、愛国詩を書いた。戦争末期、光太郎の家、アトリエ、作品などすべては空襲で焼かれてしまった。光太郎は自分のしたことを振り返り、自分を暗愚と称し、岩手の山のなか、畳三枚ぐらいの馬小屋のような建物に自己を流謫(るたく)した。
明治、大正、昭和と、三代を生きてきた自分を振り返り、自分は愚直の典型だと思う。

    「今日も愚直な雪が降り
    小屋にゐるのは一つの典型、
    一つの愚劣の典型だ。
    三代を貫く特殊国の
    特殊の倫理に鍛へられて、
    内に反逆の鷲の翼を抱きながら
    いたましい強引の爪をといで
    みづから風切の自力をへし折り、
    六十年の鉄の網に覆はれて、
    まことをつくして唯一つの倫理に生きた
    降りやまぬ雪のやうに愚直な生きもの。」(「典型))

「三代を貫く特殊国の特殊の倫理」、日本という特殊な国の寄って立つ特殊な倫理に自分は鍛えられ、だからアメリカとの戦争が始まったとき、「天皇危うし」と、この一語が一切を決定した。光太郎の耳を、おじいさん、父、母、祖先の声で充たされ、身を捨てて陛下を守ろうと、叫ばずにはいられなかった。光太郎の内には、批判と反逆の精神もあったけれど、自分を邁進させたのは六十年の鉄の網だった。なんと自分は愚直で愚劣だったことか。
光太郎の詩を読んで戦地で死に向かっていった兵士がいた。

    「死の恐怖から私自身を救ふために
    『必死の時』を必死になって私は書いた。
    その詩を戦地の同胞が読んだ。
    人はそれをよんで、死に立ち向かった。
    その詩を毎日読み返す、と家郷へ書き送った
    潜航艇の艦長はやがて艇と共に死んだ。」

閉ざされた山の中で、光太郎の心の傷は深く、7年間、山口山で一人、野菜を作り、小さな生き物と交わり、自炊し暮らした。そこを少女が訪れたのである。「人の世の体温と呼吸に触れたい」という少女、それが医者になる道なのだと少女が言ったのである。