あれだけ愛し合った二人だったのに、光太郎の妻、智恵子の心がどうして壊れていったのだろうか。解けるはずのない疑問である。
智恵子は福島県油井村の酒造業・長沼家の長女で、洋画家をめざしていた。1914年(大正3年)に二人は結婚して、東京駒込のアトリエで窮乏生活をはじめる。1929年、智恵子の実家が破産。1931年、智恵子に精神病の兆候が現れ、翌年薬を飲んで自殺未遂。33年、二人は温泉めぐりをして癒そうとするが、病状は悪化した。34年、九十九里浜に転地療養、35年、入院。38年、智恵子、肺結核で死亡。
光太郎の詩集「智恵子抄」は、二人の愛の軌跡を詠っている。「金(かね)」という詩がある。
金
工場の泥を凍らせてはいけない。
智恵子よ、
夕方の台所がいかにさびしからうとも、
石炭は焚かうね。
寝部屋の毛布が薄ければ、
上に座布団をのせようとも、
夜明けの寒さに、
工場の泥を凍らせてはいけない。
私は冬の寝ずの番、
水銀柱の斥候(ものみ)を放って、
あの北風に逆襲しよう。
少しばかり正月がさびしからうとも、
智恵子よ、
石炭は焚かうね。
「工場の泥」というのは、アトリエの彫塑用の粘土のことである。アトリエの暖房は石炭ストーブだった。
智恵子について光太郎は「智恵子の半生」という文章を書いている。
「智恵子が結婚してから死ぬまでの二十四年間の生活は愛と生活苦と芸術への精進と矛盾と、さうして闘病との間断なき一連続に過ぎなかった。彼女はさういふ渦巻きの中で、宿命的に持っていた精神上の素質のために倒れ、歓喜と絶望と信頼と諦観とのあざなはれた波濤の間に没し去った。」
智恵子は油絵を描いた。
「彼女は色彩について実に苦しみ悩んだ。そして中途半端な成功を望まなかったので自虐に等しいと思はれるほど自分自身を責めさいなんだ。
‥‥結局彼女は口に出さなかったが、油絵制作に絶望したのであった。あれほど熱愛して生涯の仕事と思ってゐた自己の芸術に絶望することはさう容易な心事であるはずがない。
‥‥彼女はやさしかったが勝気であったので、どんなことでも自分ひとりの胸におさめてただ黙って進んだ。そして自己の最高の能力をつねに物に傾注した。芸術に関することはもとより、一般教養のこと、精神上の諸問題についてもつきつめて考へて、あいまいをゆるさず、妥協を卑しんだ。いはば、四六時中はりきってゐた弦のやうなものでその極度の緊張に堪へられずして脳細胞が壊れたのである。精根つきて倒れたのである。」
生活苦に対する智恵子の受け止め方はどうだったか。
「彼女は裕福な豪家に育ったのであるが、あるいはそのためか、金銭には実に淡白で、貧乏の恐ろしさを知らなかった。私が金に困って古着屋を呼んで洋服を売っていても平気で見ていたし、勝手元の引き出しに金がなければ買い物に出かけないだけであった。いよいよ食べられなくなったらといふやうな話も時々出たが、だがどんなことがあってもやるだけの仕事をやってしまはなければねといふと、さう、あなたの彫刻が中途でなくなるやうなことがあってはならないとたびたび言った。私たちは定収入といふものがないので、金のある時は割にあり、なくなると明日からばったりなくなった。」(以上「智恵子の半生」)
生活の苦境の中でこんな詩も書いた。
夜の二人
私達の最後が飢死であろうといふ予言は、
しとしとと雪の上に降るみぞれまじりの夜の雨の言ったことです。
智恵子は人並みはづれた覚悟のよい女だけれど
まだ餓死よりは火あぶりの方をのぞむ中世期の夢を持ってゐます。
私達はすっか黙ってもう一度雨をきかうと耳をすました。
そしてまた自然との関係がある。智恵子は東京が合わなかった。智恵子は東京に空が無いと言った。安達太良山の上の空が本当の空だと言った。田舎や山、自然の空気を吸っていなければ体が持たなかったのだった。
たくさんの要素が彼女の頭を破壊したのだった。それでも、ほんとうのことは分からない。