賢治の弟、宮沢清六さんが、「兄のトランク」という著書を、1987年ちくま文庫から出している。そこに大正7年ごろ、ラッパ型の蓄音機で賢治がレコードを聴いた話が出てくる。
「私どもははじめて従兄のところで洋楽のレコードを聴いたが、兄はその時、長い間砂漠旅行で渇していたものが水をむさぼり飲むとでもいう風に見えた。曲は、『シェヘラザード』『レオノーレ』『エグモンド』などから、ベートーヴェン、チャイコフスキー、ハイドンの曲にうつっていった。兄は、蓄音機のラッパなのかに頭を突っ込むようにしながら、首を動かしたり手を振ったり、踊り跳ねたりした。
やがてイギリス盤の『月光』や『運命』が入ってきて、兄の喜びようは大したもので、
『この大空から一面に降り注ぐ億千の光の征矢はどうだ。』
『繰り返し我らを訪れる運命の表現のすばらしさ。おれもぜひともこういうものを書かねばならない。』
と言いながら書きだしたのが『春と修羅』である。つまり作曲家が音符でやるように、言葉によってそれをやり、交響曲的に表したいと思ったのであろう。そのために兄はいつも手帳を持っていて、野山でも汽車の中でも、病床でも、死ぬまで自分の考えを忘れないうちにスケッチした。
そのうちにレコードの良いものが買えるようになって、『田園交響曲』や『第九合唱つき』などが手に入ったころの兄は有頂天になっていた。‥‥
兄は過労のために病床に伏すようになったが、その枕元でも私はレコードをかけたのであった。‥‥
兄は38歳で死んだ。残っていたレコードは昭和20年の花巻空襲で大半焼けてしまい、猛火の中から古いアルバム一冊だけが、かろうじて防空壕のなかに運ばれて助かった。それは兄が初めて求めたベートーヴェン『田園交響曲』とシューベルト『未完成交響曲』、シュトラウス『ドン・ファン』、ドビュッシーの『牧神の午後』など12枚であった。」
花巻空襲で宮沢家は焼け、高村光太郎はそのとき宮沢家の離れに東京から疎開して住んでいたが、東京のアトリエ焼失につづいて再び焼け出されたのだった。