高村光太郎・尾崎喜八・ヘルマン・ヘッセのつながり

 穂高東中学校では毎年秋に、「田舎のモーツァルト音楽祭」が、生徒全員とゲストの音楽家によって開催されている。全生徒による「レクイエムから」の合唱を聴いた時、ぼくはその合唱のすばらしさに聴きほれるとともに、一人の詩人・尾崎喜八が1960年ごろ、田舎の中学校に立ち寄り、音楽の授業のなかで、若い新任の女の先生がモーツァルトピアノ曲を演奏していて、生徒たちがそれに耳を傾けている様子を見て詠った詩「田舎のモーツァルト」が、50年の月日を経て地域の音楽会として生きつづけていることに感動したのだった。
 学校の隣に碌山美術館があり、そこには荻原碌山の彫刻と共に碌山の友であった高村光太郎の作品も展示されている。尾崎喜八高村光太郎を敬愛し、強い影響を受けた。そこから喜八はロマン・ロランに心酔し、やがてヘルマン・ヘッセにつながっていく。
 喜八に、ヘルマン・ヘッセにささげる詩がある。「夕べの泉」というその詩について、喜八は、こう書いている。
 「私の生活の秩序も、私の心の神秘も、小さいながらも調和の自然に似通おうとしている。‥‥夜、春の谷間に、暗く深い山風のゆりかごの歌の流れるころ、私は古い宿屋の小さい卓にむかって、ヘルマン・ヘッセに捧げる一片の詩を書くことができた。」


      夕べの泉

    君から飲む、
    ほのぐらい山の泉よ、
    こんこんと湧きこぼれて
    なめらかな苔むす岩を洗うものよ。


    存分な仕事の一日のあとで、
    わたしは身をまげて荒い渇望の唇を君につける、
    天心の深さを沈めた君の夕暮れの水に、
    その透徹した、甘美な、れいろうの水に。


    君のさわやかな満溢(まんいつ)と流動との上には
    嵐のあとの青ざめた金色の平和がある。
    神の休暇の夕べの旗が一すじ、
    とおくバラ色の峰から峰へ流れている。


    千百の予感が、日の終わりには
    ことに君の胸を高まらせる。
    その湧きあまる思想の歌をひびかせながら、
    君は青みわたる夜の幽暗におのれを与える。


    君から飲む、
    あすの曙光をはらむ甘やかな夕べの泉よ。
    その懐妊と分娩との豊かな脈動を
    暗く涼しい苔にひざまづいて干すようにわたしは飲む。 


 あふれるようなヘッセの詩精神に、喜八は無限の泉を見て、くみ取ろうとした。1970年、喜八は、82歳で亡くなる4年前であったが、ヘッセに呼びかける詩を書いている。


    今日は今から八年まえ、
    あなたがこの世を去った日だ。
    スイス国テッシン州モンタニョーラの
    もうどこやら秋の気配の感じられる
    しかしまだ山も湖も村々の眺めも
    晴れやかに美々しく輝いている夏の日に。
 

    八十五年のあなたの長い生涯は
    その精神や行動の妥協を知らぬ自由さで
    遠いとつくにの若者私の心をとらえ励まし、
    人はその命のふるさとからの原型を
    内心の要求に従ってみごとに造形してゆくために、
    おのれ自身に極力忠実でなければならないと教えた。


    そのあなたを喜ばせたスイスの夏の風光が
    秋めく朝が、あなたの眼から永久に消えた八年後の同じ今日、
    たとえ私の庭にヤマユリが香り、キョウチクトウが燃え、
    セミたちの合唱が谷間の空を満たしていても、
    それもたちまち無常の風に運ばれる輪廻(りんね)の理法のきびしさを
    今改めてあなたは私に思い起こさせるのだ。


 この詩のタイトルは「詩『無常』の作者に」となっている。日本人のなかに連綿と生きつづける無常観、そして輪廻の教え、自然から生まれ自然に還っていく、自然との一体のなかですべては循環するという思想、ヘッセのなかにはそれが受け継がれ、無常の理にもとづいて、ヘッセは去り、喜八も逝った。