大失敗と大成功

マート君と、マートのフィアンセのエミちゃんと、そしてぼく、三人で秋の信州へ行こうと相談した。マート君とぼくは、新雪常念岳に登り、白銀に輝く穂高連峰や槍が岳を見る、そして稜線でテントを張って一泊する。エミちゃんはひとり碌山美術館に行って、どこか宿に泊まる。行き帰りの列車は三人一緒で、現地での行動は別々、そういう計画を立てて準備をし、大阪駅から夜行列車に乗って行くことにした。マート君たち二人は結婚していなかった。マート君は中学二年のときはぼくのクラス生徒で、ぼくが指導する登山部の部員でもあった。中学を卒業してから高校山岳部に入って山に登り、大学を出て小学校の教員になった。
ぼくは、この計画で大失態をやらかした。出発の日、長野行きの夜行列車は夜9時台だったか10時台だったか、正確な時刻は忘れたが、10時前後の発車ではあった。三人はそれに乗ることになり、ぼくは学校の仕事を終えて家に帰り、あわただしく荷物を整えた。ぼくの家は信貴山の中腹にあった。大阪駅まで1時間以上かかる。時間的余裕はあまりない。ぼくは、テントや炊事用具、食料の入った大きなキスリングザックを背負って家を出、坂道を下った。近鉄生駒線信貴山下駅で電車に乗る。関西線の王寺駅で快速電車に乗り換える。この乗り継ぎでつまずいた。長いホームを走って階段を上り、また下りて、快速列車に乗ろうと急いだ。それが間に合わなかった。次の快速を待つ。気持ちは焦った。天王寺駅でも階段を上って下りて、環状線に乗り継いで大阪駅に向かう。時間が気になった。ぎりぎりセーフになるかどうか。大阪駅に着くと、また階段を下り、環状線からいちばん遠い長野行きのホームをめざして通路を走る。そのときすでに夜行列車「ちくま号」は発車の時刻になっていた。重いザックを担いで長野行きのホームへの階段をあえぎあえぎ上がっていくと、発車のベルが鳴り響いている。待ってくれ、その列車にはマートたちが乗っているんだ、待ってくれ、祈る気持ちで息を弾ませ、階段を上りきって列車めがけて走ろうとしたとき、列車はもう動き出していた。間に合わなかった。どうしよう、どうしよう、ホームには、二人の姿はない。乗って行ったにちがいない。ぼくはすぐさま、次の手を打つことにした。北陸線を使う手だ。「ちくま号」は名古屋から中央線に入り、美濃から木曽路を上っていく。それに追いつく列車はない。ひょっとしたら北陸線なら可能かもしれない。北陸の夜行列車はまだ出ていなかった。ぼくはそれに乗った。座席に落ち着いたぼくは悔やんだ。とんでもないドジをやってしまった。どうしてもっと早く家を出るようにしなかったのか。二人は心配しているだろう。夜の闇を列車は走っていった。ぼくは眠れなかった。自分を責めて、気分が落ち込んでいた。
翌朝富山を経て、糸魚川に着く。そこから大糸線に乗り換え、目的地の豊科駅に着いた。中央線を使って到着するマートたちの時刻はすでに過ぎていた。二人はどうしているだろう。ぼくはザックを背負って豊科駅に降り立ち、改札を出た。と、いるではないか。ひなびた駅舎の前に二人は待ってくれていたのだ。すまん、すまん、ひたすら謝るしかなかった。二人は「ちくま号」のなかのどこかにぼくが乗り込んでいるのではないかと探した。乗っていないと分かって、どうしたのだろうと想像をめぐらし、心配していた。彼らもストレスを抱えて一晩を過ごしたのだった。そして朝、ぼくは必ず来ると思って待ってくれていた。
別行動の美術館めぐりに出かけるエミちゃんと分かれたぼくとマートは、遅れた時間を取り戻すために駅前のタクシーに乗って須砂渡口よりもう少し上まで、行ける所まで行ってもらった。そこから烏川渓谷沿いの道をえんえんと歩く。常念岳への登山路には人の姿はなかった。黙々と歩いて高度をかせぐ。夕方近く、新雪の稜線に出た。待ち望んだ穂高の連峰は夕日を背景に雪を頂いてそびえていた。
それ見ろ、槍、中岳、南岳、北穂高だ。その左、奥穂高、それから前穂高、麓からは見ることの出来ない奥座敷の雪の連嶺、冬を迎える山群が静まり返って眼前にあった。
稜線にテントを張り、湯を沸かして食事を作る。寝袋にもぐりこみ、解放感にひたって眠る。しんしんと背中に冷えが伝わってくる。山の気だった。
それからしばらくして、マート君たちは結婚した。今二人には孫も生まれている。