仮説実験授業と民間教育


雨包君の家の書棚に、雑誌「たのしい授業」(仮説社)が並んでいた。今年の8月号をぱらぱらめくると、「民主主義と社会の授業」「授業書(徴兵制と民主主義)」「毛沢東崇拝と文化大革命」「教室で使える『遊び』」「漢字の花火大会」などの記録や授業案、読み応えのあるおもしろい内容がつまっている。それを見て驚いたことを以前このブログに書いた。そのとき何に驚いたか、それは現場の教師による自発的主体的な教育実践創造という営みが衰退し、したがって民間の教育研究会に入って研究実践を交流する教師も減少、それが民間教育研究団体の消滅につながっていたのだが、そのなかにあっても、仮説実験授業研究会は堅実に生きつづけているという驚きだった。つまるところ最近の教育界を憂えてきた自分だったが、自分はその実態を具体的にはつかんでいなかったと思う驚きでもあった。ぼくは、書棚の中から9冊を抜き出して借りて帰った。どの号も、内容は濃く、そこに希望を感じた。
仮説実験授業研究会の全国研究大会(宮城)には、今年は500人近い教師たちが集ったという。
半世紀前、学校が夏休みに入る前には、日本教職員組合の発行する教育新聞は、数ページに渡って全国の各地で開かれるいろんな教育研究団体の開催する夏の合宿研究会情報一覧を掲載した。それはそれは、よくぞと思うばかりの、自由度と熱意と希望があふれるデータであった。どこに参加しようか、旅をかねた研究会参加は、未知の教師たちとの出会いの場であった。
仮説実験授業研究会は、1963年の夏に発足した。半世紀が過ぎて、代表の板倉聖宣は、「仮説実験授業の基礎理論とその成果」について次のように述べている。
■仮説実験授業の基礎にある哲学
1.科学的認識は,対象に対して〈仮説・予想〉をもって意識的に問いかける〈実験〉によってのみ成立する。
2.科学的認識は社会的な認識であって,個々の人間が仮説実験的に確かめた事柄を越えた認識を目指すものである。
3.授業には,各クラスの教師と生徒の個性を越えた法則性があって,個々の教師の作成した思いつき的な教材で授業するよりも,他のクラスで成功した授業プランで授業したほうが成功するのが普通である。
■仮説実験授業はなぜ〈楽しい授業〉を保証しえたか
仮説実験授業の基礎理論からすると,「人間は予想しなければ正しく認識しえない。疑問の余地が残る」ということになる。そこで,仮説実験授業は「問題→予想・仮説→討論→実験」の反復を中心とした授業形態を生み出し,「一人ひとりが予想をたてて討論に参加する」ことを可能にした。
 科学の教育は集団的な授業によってもっとも効果的に達成できる。そこで「集団的な授業」と「その中の一人ひとりの予想・仮説」が重視される。

 板倉代表の提唱してきた仮説実験授業は、半世紀にわたる全国の実践教師によって作られてきた。自分の頭で考え、みんなで意見を交わしあい、実際にやってみて、その結果からさらに考え、本当のことを見つけ出すこの授業の意義は深いものがある。しかし、教育現場はあいかわらず、一人の教師の知識と経験と指導技術、そして教科書から出ることがない。
あの時代、ぼくが学んだ教育研究会は、いくつかある。「教育科学研究会」「全国生活指導研究協議会」「児童言語研究会」「日本作文の会」「文芸教育研究協議会」、それらは今も活動を続けている。全国の教師たちは、開かれた研究の場へどれだけ出て行って、他者から学んでいるのだろう。