村上春樹氏への中国人作家の返信を読んだ


村上春樹のエッセイに対する中国人作家、閻連科氏の返信が、週刊誌『AERA』に掲載された。その『AERA』と月刊雑誌『世界』を買いに本屋へ行った。『AERA』はあったが、「『世界』はおいていません。定期購読の方のは取り寄せしています」という書店側の返事だった。月刊誌『文芸春秋』は、芥川賞の受賞作品を掲載していて、売れるから大量に平積みしている。良識のオピニョン誌『世界』は、注文しないと手に入らない。市立図書館へ行くと、週刊誌では『週刊文春』はあるが、『AERA』はない。月刊誌も『文芸春秋』は置いてあるが『世界』はない。これが現実だ。
中国人作家、閻連科氏は、次のように書き出していた。
村上春樹氏の『安酒の酔いに似ている』という時宜を得た文章を読んで、彼がエルサレム賞受賞時に発表した「常に卵の側に」という荘重な言葉同様、感慨深く、彼に対して文学を超越した尊敬の念を抱いた。これより前にも、大江健三郎氏の現在の領土問題に関する見解と談論を中国でも読むことができ、この尊老に対する尊敬がますます深まった。
日本の作家は、率先して両国および、(弾き方次第でどんな音が出るかわからない)琴線のような東アジア情勢にかかわる明確な洞察、理性的な見解を表明し、知識分子としての人格および文章を書く者としての非凡さに尊敬の念を抱かせる。それに比べ、私は一人の中国の作家として、あまりに鈍感であり、及ばない自分を恥ずかしく思う。」
閻連科氏はこのように自己に謙虚に、二人の日本の作家に敬意を表しつつ文章を起こしていった。閻氏はつづいて、歴史と現実の前では、文化、文学はあまりにも非力だと嘆く。中国はとても広く、多くの人々が毎日いらだちのなかで生活している。なぜ、誰のためにそんなにいらだっているのか、彼ら自身も説明できない、そんないらだちの苦痛の中で、彼らは排泄できる窓と道を待っている。こんな状況だから、中国人をも恥じ入らせるあの打ち壊しが始まったのだと。
閻氏は破壊者への憤りとともに、彼らのやるせなさへの共感もつづる。閻氏は文学の視点から「現在の中国では、どんなことでも起こりうる」と強調する。閻氏はベッドのなかで、黙って祈ることさえあった。
「君たちの意思でいま一度あの、人々に塗炭の苦しみをなめさせる銃声と砲撃を引き起こすようなことはしてくれるな」と。
「戦争はあまりに恐ろしい災難である。多くの民衆にとって、戦争にいわゆる勝ち負けなどない。戦争が起これば、庶民である人々は、いつだって負け組でなくてはならない。死と墓。それが帰結なのだ。
私は何度も繰り返し考え、問うた。あの『切るに切れない、どうにもできない』島が、なぜ誰もが抱え込んだら放さない火の玉になり得るのか。この火の玉の激しい炎を消すことが誰にできる?」
そして閻氏は叫ぶ。理性! 理性! 理性の声のほかにない、と。中国、韓国、日本、東アジアの知識人が、みな立ち上がって理性的に話をしたら、人々の感情を落ち着かせることができるかもしれない。知識人と作家にも、役に立つときが来たのだ、と。
長い返信の最後を閻氏はこう結んでいる。
「私はいつも考えている。ひとつの国家、ひとつの民族の、文化、文学が冷遇され、消滅するとき、面積などなんの意味があるというのか。中国の作家として、政治は政治に帰し、文化は文化に帰すことを切に望んでいる。政治が不穏であるとき、いかなることがあろうと、まず文化と文学という世界各国の人々の心と血管と蔓を互いにつなげる根を絞め殺してはならない。つまるところ、文化と文学は人類存在のもっとも深い部分の根であり、中でも、中日両国および東アジアの人々が互いに愛し合うための重要な血管なのである。」
村上春樹氏のエッセイは中国全土に広がっているという。それに応えた閻氏の返信は、国を超えて手を結ぶことを呼びかけている。作家、音楽家、美術作家、文化人、知識人が動くときだと。

閻連科氏の知性と愛、その勇気ある行動に胸打たれた。