「第一回教育創造ミーティング」<6>

 教師にはどうしようもない無力感がある。一方で学校への不信、不満、失望がある。学校改革、教育改革はどの時代にも叫ばれてきた。この社会はどこへ向かっているのか、この国はどんな国になっていくのか、その不安に随伴する教育への懐疑である。
 無力感、失望感の背景に人々の置かれた閉塞状態がある。見えない壁に取り囲まれて、ひとり黙々と仕事している教師はそのことをあまり自覚していないように思える。タコツボに入っていては道は開けない。社会、世界を凝視し、交わりを作っていかなければ、タコツボから出ることはできない。
 ぼくが教師になって4年目だったか、夏休みにカウンセリングの講習会があった。場所は高野山大学で、一週間ほどの合宿だった。そこで出会ったのが、当時国学院大学教授の友田不二男だった。カウンセリングの研究・実践・普及、カウンセラーの養成などの活動を行ない、日本カウンセリング・センターを立ち上げていた。
 講習そのものがカウンセリングのワークショップであったから大きな衝撃を受けた。徹底してクライエントの心に寄り添い、受容し傾聴する、その過程の中からクライエントは自己と向き合って、自らの力で立ち上がっていく。ワークショップはその実際をグループカウンセリングで展開するのであった。この講習会のなかで、カウンセリング理論を学校教育全体と授業に応用しているいくつかの学校を紹介された。
  二学期が始まり学校にもどると、その学校へ見学に行くことにした。教頭は出張を快く認めて旅費を出してくれた。二学期の間に一校、それは大阪府の小学校であった。そして三学期が始まって広島県の中学校と養護学校へ2泊の出張見学に行った。一人だけの出張だった。呉線の竹原駅で降りると雪が降っていた。駅前旅館に泊まって、翌日雪の中を加茂川中学校へ行った。登校する生徒たちと一緒に校門をくぐり、校長室へ行くと、校長は「一日自由にどこを見てもいいですよ」と言ってくれた。授業が始まり、ぼくはいくつかの教室に入って参観した。それは「自発協同学習」と呼ばれる方法だった。教師は教壇の横にいて、生徒たちが学習を進めていく。その時は知らなかったが、後に校長の信川実氏は「自発協同学習」を創造・開拓した教育実践家であったことを知った。加茂川中学を参観すると、次は移動して情報で知っていた養護学校を訪れ、それから広島市平和公園の記念館を観て帰ってきた。
この参観の衝撃は大きかった。学校にもどると、ぼくもまた授業を創造する実験にとりかかった。
 あの時代、教育研究の試みは百花繚乱の趣があった。夏休みに入る前、日教組の発行する「教育新聞」にはおびただしい数の民間の教育研究会夏の合宿などの情報が掲載された。「教育新聞」のブランケット版の何ページかにわたって、研究会の日時、場所、内容、申し込み方法などが載っている。
 教育科学研究会、全国生活指導研究協議会、日本作文の会、児童言語研究会、文芸教育研究協議会、歴史教育研究協議会、仮説実験授業研究会、数学教育研究協議会‥‥それはそれは、ものすごい数であった。一人の教師がとても参加できるはずもない条件ではあるが、戦後の自由と民主主義の形成期のなかで教育創造にかけるエネルギーは猛烈なものであった。
 それらの研究実践に刺激され、教えられ、自分もまた自分の教育をつくりあげていく、先人から学び創造する人生だった。
 今、教育界をおおっている沈滞ムード、無力感、そして民間教育研究団体の弱体化は何を物語っているのだろうか。いやそんなことはない。民間教育研究団体は果敢に生きて実践している、というのが事実なんだろうか。
 『生活綴方教育』の伝統を受けつなぐ「日本作文の会」は、今年創立60周年を迎える。

 あのとき、出会った友田不二男氏はその後、参議院議員の選挙に出馬し、落選した。どうして議員などに立候補したのかと疑問に感じたが、友田氏にはこの社会をなんとかしなければという思いがあったのだろう。シカゴ大学に留学してロジャーズに会い、カウンセリングの研究・実践を始め、その普及活動やカウンセラーの養成を行ってきた氏は、落選後、カウンセリングの組織的活動から引退し農業を始める。そして芭蕉俳諧に入り込み、農耕と蕉風俳諧老荘思想に近づく。「蕉風俳諧は江戸時代におけるカウンセリングである」と言い、日本人特有のカウンセリングの創造を求め、夏目漱石の研究、ミヒャエル・エンデの思想探求と、友田の道はさすがに自由であった。