国家と領土、ナショナリズム


 人類がアフリカを出て、世界に広がっていった長い長い歴史。人は行った先々、そこここに居を構えて、家族、親族は助け合って生き、部族が生まれ、村が作られた。新たに目指して行くところはすべて未知の世界、山も森も、野も川も海も、すべて誰のものでもなかった。
 人間の数が増え、社会ができてくると支配者が登場し、国が生まれた。国の領域に住んでいるものは、いやも応もなく支配者の国の民とされた。
アレクサンダー大王マケドニアからインドまで版図を広げた。モンゴル帝国はアジアの大半を支配しヨーロッパ・ロシアまで征服した。けれど、それは支配権力が勢力を持っているとき限りで、領土というのは常に変化してきた。フランス、ドイツ、ロシアの歴史、中国の歴史、どの国にもそういう征服と領土拡張の暦史がある。
 日本の場合、縄文時代の先住民がいて、その後にまた別の種族が移り住んできた。4世紀から7世紀にかけてヤマト政権が生まれ、それに従わない東北・北海道にいた「えみし」は平定されて、ヤマトの国の民となった。
アメリカ、オーストラリア、中国など、各国の少数民族、ネイティブの人たちも、そこを支配した政治権力の民になり、その国を構成する人民になった。
 国家への忠誠心を共通のアイデンティティとする国民国家が生まれたのは、人類の歴史から見れば、ほんの先程のことだ。しかし、多くの矛盾を抱えながら、分裂、合体をくりかえしもしている。ナショナリズムは、その過程で生まれた。
 吉本隆明は、国民国家は解体すべきだと言った。国家がある限り、階級というものが必ず発生して民衆の間の差別が永久になくならない。本質論として、国家や国家の軍隊は抑圧機関であり、歴史が進むにつれて、それらは解体し、やがて歴史は世界を一つにするだろう。EU欧州連合)は国民国家の解体の兆しだと言える。そこで国民国家の矛盾をなくし、国家を解体するには、吉本は、「国家を国民に対して開く」ことだと言った。
北方領土みたいな国家間の問題については、運営委員会のようなものをつくって、日本とロシアの双方で共同管理、共同運営すれば、国家を国家間で開くモデルになる。その運営委員会は、日本とロシアの双方の国から任意に選ばれた同数の民衆によって構成し、双方の国の民衆が、北方領土に出入りするのは自由、どんな商売をするのも自由、というふうにすればいい。そうすれば、国内に対してだけでなく、国際的にも『国家を開く』第一歩になる。」(「私の戦争論ぶんか社
 重要なのは、民衆である。国家の壁をつくるのは政治権力、国家を開くのは民衆である。日本人である前に私たちは人間である、中国人である前に、韓国人である前に、ロシア人である前に、日本人である前に、われわれは一個の人間である。個々の人間のアイデンティティはそこから生まれる。人類の歴史を見よ、吉本はそう語った。

9月12日、二人の論があった(「朝日」)。まず、韓国生まれで韓国と日本で育ったクォン・ヨンソク、一橋大学准教授の論。
「近代西洋で生まれた国際法は、線を引いて排他的な領土や領海を規定します。このゼロサムの論理が帝国主義や戦争の原因にもなりました。でも、かつての東アジアの海は、はるかにルーズでした。どこから『こっち』で、どこから『あっち』なのか、入り乱れた中で交易があり、文化が花開いた。侵略しないかぎり境界は寛容で、多様性を認めていた。さまざまな地域の文化が混交した国際色豊かな日本の奈良時代は、その典型です。
 もし現在の対立を好機に変えられるとしたら、はるか先かもしれませんが、国家の枠をもう少し柔軟に考える、新しい「何か」への契機にできたらと思います。『島を持ったもの勝ち』ではなく、当事国も周辺国も資源を共同開発し成果を分配するような、新たな枠組みを考え、つくっていく。ナショナル(国単位)ではない、リージョナル(地域的)な枠組みです。もともと東アジアの海とはそういうところだったのですから。」
クォン・ヨンソクの専門は東アジア国際関係史。
 次は、中島岳志北海道大学准教授の論。

「19世紀後半、東アジアは西洋で生まれた『主権国家体制』のなかに組み込まれた。国際社会の中で独立した主権を持ち、排他的な自分の領域を明確にした国家です。この国家体制は、『誰のものでもない領域』を許さない。その結果、それまで誰もが気にしなかった島や辺境までもが、自分の身体とつながっているかのような感覚を持つようになった。
一方、東アジアの国際関係は長い間、中国を機軸に構成されていました。そこでは、上下のある主従関係から対等な貿易関係まで独自のシステムで秩序がつくられていました。国境は明確ではなく、しかも権力は中心から外へ離れるほど弱くなっていく。ある種のあいまいな領域の存在が許容されるシステムでした。この東アジアに19世紀、主権国家体制という『近代』が入ってきた。明治期の日本はそれに適応して近代化を進め、あいまいだった国境を画定しようとしていった。尖閣諸島の領有権を確定する(1895年1月)のもこのプロセスだった。
中国は、旧来の秩序の調整によってこれを乗り切ろうとし、結果的に近代化の流れに出遅れた。そして日清戦争下関条約で秩序が最終的に崩壊する。福沢諭吉など明治期の知識人は、中国、朝鮮の「近代化」への期待をもっていた。しかしそれが進まない。朝鮮の開化への支援も失敗する。それによる期待といらだち、それは、近代からつづく構造的な不幸であった。平等な連帯を主張していたアジア主義者たちは、やがて日本のアジア支配に同調していく。」
中島岳志は近代政治思想史が専門。

 民間レベルで、一個の人間が、国家の壁を越えて話し合い、交流することがもっと行われねばならないと思う。沖縄、石垣の住民も声を発していくべきではないか。
そして、日中韓の学者の研究交流。