アイルランドのアラン島と震災復興を考える糸井重里



 岩ばかりの島、アイルランドのアラン島に上陸した糸井重里は、見渡す限り岩石の連なる光景を見て、震災被災地のがれきのようだと言った。しかしぼくはがれきとは見えなかった。この島に人間が入ってから、人びとは丹念に一個一個の岩石を積み上げてきた。親から子、子から孫へと受け継がれてきたその労作は、羊の放牧地を囲う柵にもなり、同時に石の芸術でもある。予期せずにそうなっている。
 糸井重里は、3.11後、震災被災地の復興にかかわってきた。彼ががれきを連想したのはそのせいもあろう。彼は優れた個性のコピーライターとして活躍してきたが、いまコピーライターの枠を超えて社会運動家として動いている。東北で立ち上げたのは「編み物」を地場産業にするというプロジェクトだった。
 被災地を本当に幸せにする新たなる復興とは何か、その答えを見つけるためにアイルランドのアラン島へ糸井は旅だった。NHKのドキュメント番組「旅の力」は、アラン島の島民とセーターと糸井の東北復興計画を結びつける見ごたえのあるシナリオを放映した。
 アイルランドの沖合いにあるアラン島は、編み物の長い歴史を持つ島として知られる。島は岩ばかりで、農耕などできる環境ではなかった。生業は漁業、男たちは海の漁に出た。その間、妻たちは羊を飼い、その羊毛を紡いで家族のために手編みのセーターを作った。羊を飼うためには牧草が要る。岩ばかりの島には土がなかった。島人たちは島を覆う累々たる石を一個ずつ積み上げ、人間の背丈ほどの石壁を島の全部に網の目のように張り巡らした。男たちは海から海草を採ってきて、それを石の防風壁の内側に堆積し、やがてわずかな土が生まれた。その土の部分に牧草が育ち、羊が飼われ、次第に家族が食べることのできる野菜も植えられた。それは数百年の歴史を刻む。
 妻たちは夫の留守宅で、編み棒を動かした。冬の海風から夫を守ってくれるアランのフィッシャーマンズセーターはこうして作られた。何ヶ月もかけたその手仕事には祈りの心がこもった。魚網のダイヤの形や漁の縄の形がアランセーターの模様となった。さらに家族ごとの模様に特徴が現れた。厳しい自然環境に育つ島の羊の毛は、太く暖かかった。 
 やがて、フィッシャーマンズセーターは世界的に有名になった。セーターは高値で売れ、島の経済をうるおす存在となった。観光客がやってきた。家族のために編まれてきたセーターは、商業的価値を持つものになった。
 糸井の探訪は、つつましい生活の中で、いまも「編む」という営みが、人々の中で脈々と受け継がれていることを発見することでもあったが、同時に、悲しい現実との出会いでもあった。島に観光客相手のセーターの店や工場が造られ、そこで扱われている商品は手仕事のセーターではなかった。島の外から持ち込まれたものが多数であった。手編みセーターは、一枚が数ヶ月かける手仕事であるために、価格が高い。機械製のセーターや他所から持ち込まれたセーターは、価格が格段に安かった。ここに競争が持ち込まれた。手編みを作っている人たちは、売れるために採算の合わないまま値段を下げざるを得なかった。それが悲しい現実を生む。手編みをする人たちが激減していった。
 伝統を守って、編み棒を動かして作っている人たちを糸井は訪ねる。ある婦人は、一週間に二枚のセーターを編んだ女性の話をした。その人はすごいスピードで夜中も編んだ。
「彼女の腕の関節がキシキシと音を立てていました。」
 無理に無理をかさねて、工場生産に負けまいと編み続けた女性は力が尽きた。
「その人は、死んでしまいました」
 それを聴いた糸井の顔がゆがんだ。嗚咽は号泣に変わった。
 その島の人たちの伝統を守ってきたアランの人たちの喜びと悲しみ。被災地東北に、手仕事の編み物をひとつの復興のシンボル的産業にしていこう、と思い描く糸井の希望が、この島の現実と激しくぶつかりあった、葛藤が、糸井の感情を揺さぶった。
 なぜ人間はものを作るのか。その原点が、崩れていく。
 安曇野穂高に、「天蚕センター」がある。天蚕とは、ヤママユのこと。ヤママユの糸で織物をつくる。センターでは数人の女性が機織をしている。普通の蚕ではない、ヤママユの糸は緑色を帯びて光沢がある。およそ商業ペースにはのらない仕事である。伝統を守るという使命を帯びて、機織は続けられているが、日本の各地の伝統文化、民芸のかずかずは、押し寄せる商業主義の前に風前の灯である。
 アランのセーターは、贈る人の愛を込めてつくられた。
 民俗学者宮本常一は、1977年、奈良県十津川流域の大塔村に入った。山仕事の村は人口が減少していた。かつて100戸あったひとつの集落は、そのとき35戸になっていた。そこは、つぼ杓子を作る集落だった。各集落にはそれぞれ個性的な文化があり、ある集落は狂言を行い、また民舞を行なうところもあった。1977年の時点では、最後までここに踏みとどまり、つぼ杓子を作り続ける人たちがまだいた。
 人々を温かく結びつける本もの、伝統の技を震災復興に! 人間の幸せを目的にするものづくりに、文明は立ち返っていかねばならないと思う。