山口家までの歩く道

       山口家の門


 堀金地区の山手に岩原という集落がある。最近このあたりを朝のウォーキングでよく歩く。そして思いがけない、味わいのある道を発見した。それは集落のなかをくねくね曲がる細い旧道なんだが、残念ながらそれは長く続かない。
 7年前、JR豊科駅から国営アルプス安曇野公園まで、景観のすぐれた「安曇野パブリックフットパス(歩く人だけの道)」を指定できないかと、実際にあてもなく歩いてみたことがあった。豊科駅を出て、北に100メートルほど行くとアルプス公園方面に上がっていく車道がある。交通量の多いこの道を行くのはあまりに味気ない。そこで、JRの踏切を渡るとすぐに人家の間を右に折れ、集落の裏をかすめて田園地帯に入る。北アルプスが西から北に展開するのがすばらしい。山を眺めながらまっすぐ野道を風に吹かれ、下堀の集落を目指す。下堀の集落に入ると古い伝統的な人家や庭が現れ、村道をたどって神社に立ち寄り、つづいて広域農道を横ぎる。そこからは扇町集落だ。旧街道の木立の道を行く。扇町集落のはずれで、道を南に折れ、寄り道して、県立農業高校の農場に行く。リンゴ園や栗園のある農場の一角に六角形の校舎「日輪舎」がある。歴史的な文化遺産だ。農場を出ると倉田公園の南の道を岩原方面に登る。できるだけ直線の自動車道路は通らないようにする。
 そのとき、条件としたのは、「まず車が走らない道であること」、「景観が美しいこと」、「信濃の伝統文化にふれることのできる集落があること」、この三つであった。そうして、これがコースになりそうだと思える道を自分なりに見つけたのだが、安曇野パブリックフットパスのコースになりうるか、という点では不満があった。
 その後、安曇野のいたるところを歩いてみて思うのは、どこを歩いても似たり寄ったりで、スケール、美しさ、豊かさという点で満足できる長い道はもうどこにも存在しない、という結論だった。
 具体的に言うと、新興住宅がいたるところにあり、家の色も形も各個ばらばら、家と家が調和していない。安曇野の伝統美は、住宅を取り囲む高木があり、家と林が調和しているところにあるのだが、新興住宅地や新しい住宅には樹木の装いがない。丸裸だ。かつて存在した雑木林も切り開かれて今はもうない。夏の日差しを防ぐ、高くそびえて枝を張った並木もないから、夏はかんかん照りだ。「歩く道」「歩く文化」を生み出すという発想そのものが行政にも市民にも存在してこなかった結果が今の状態なのだ。自動車の通る道を造れ、これが最優先された。「車に邪魔されない、人が歩く道こそ未来の安曇野にふさわしい」なんて考えなかった。行政関係者は自身で市内の道を歩くことはほとんどない。車に乗って市民の暮らす環境を窓から見るだけだ。実際に脚で歩いて見る行政マンはいない。ほんとうのところは歩かなければ分からないのだ。
 最近岩原の、大庄屋山口家から里へ下る道を歩いて、「ここはいいなあ」と思えるところをいくつか発見したものの、問題は、「歩く道」にふさわしいところをつないで、豊科駅まで行くことができるか、ということだ。結局車道を歩かなければならない部分が多いのだ。
 安曇野がほんとうに魅力のあるところにすることができるか。今のところ魅力があるのは点である。それでば、観光は薄っぺらなものになる。安曇野をほんとうに魅力のあるところにするには、点を線にし、線を面にしていくことだ。
 安曇野のなかにパブリックフットパスを網の目のようにつくる。そのような地に着いた施策が10年、50年、100年先に生きてくる。欧米の景観は、「ここまで100年かけてつくってきた、これから100年かけて守っていく」という息の長い環境づくりだった。
安曇野市は、2億1千万円かけて「豊科IC]という長野自動車道の名称を「安曇野IC]に変えた。10億円の経済効果があるという、あてのない予測を信じたのだ。もし、その金額を投じて、合併した5町村をつなぐ「美の創出」をしたならば、何度でも来たくなる安曇野に近づけたかもしれないのに。

 明治の半ば、1894年、イギリスの宣教師で登山家だったウエストンは松本から歩いて常念岳に登った。列車も自動車もない時代、そのとき彼は山口家に泊めてもらった。こんな文章がある。
 <水田は大きな将棋盤のように、城のすぐそばからめざす西方の山の麓まで続いていた。道端の農家では一人の男が踏み車のようなもので米をついていた。彼の足の力で大きなきねが引き上げられ、次の瞬間には鈍い単調な響きとともに、うすの中へどさりと落とされる。暑いほこりっぽい道を7、8マイル歩いて、ぼくたちは豊科から岩原の部落に着いた。部落は常念岳の東の出尾根が形成する前山の麓にあった。村に着いて最初の仕事は、村長を探すことだった。近くには旅館などなかったので、ぼくたちは村長の親切と援助を頼りにするほかなかったのだ。ぼくたちは失望せずにすんだ。村長の家は、美しい杉林のすぐそばにあり、鳥居風の大きな木の門をくぐると玄関前の庭に出る。右手の塀のくぐり戸を通って、美しい小庭に出た。それは日本人の芸術的気質が愛好する、例の箱庭式風景だった。丁寧な挨拶を受けて、ぼくたちは広い縁側に上がり、心からの歓迎を受けた。最初に長男が現れ、次に村長の山口義人が現れた。彼は60歳ぐらいの堂々たる老紳士だった。
 ‥‥ぼくたちは用件を切り出した。村長たちは、熱心にぼくたちの計画を聞き、それについて意見を言ってくれたのは、たとえようもなくうれしかった。日本人がよく使う、「ほんとうにむさくるしいところですが」という意味の、謙虚な弁解の言葉を述べながら、親切な村長はきれいな客間を二部屋ぼくたちの自由にさせてくれた。その夜、ふとんに横たわり、喬木のこずえを渡る風の音や、遠い山々にこだまするヨタカのぶきみな声を聞いていると、ぼくたちはほんとうに「たいした身分だ」という気になった。(日本アルプス登山と探検)>