道祖神の祭り




一月の十日すぎ、アルプス公園から穂高町の塚原の集落のほうへ下りてくると、夫婦の道祖神の前に一人の老婦人が空を見上げ、デジタルカメラを顔に近づけておられる。はて何だろうと見ると、一本の丸太の木に飾りがついたのが立っている。
不思議なものがあるぞ、近づいていくと、高さ8メートルほどの、ヒノキの間伐材のような丸柱だ。先端に葉のついた竹がつけられ、その下に柳の木か桑の木か、細いまっすぐな枝がバッテン形にして柱にくくりつけられ、それが五段になって枝の先端をワラ縄が上から下までつないでいる。
縄と木の枝には、色紙を輪にしてつないだ飾りや、女の子が昔遊んだお手玉のような巾着袋、ワラを束ねて俵の形にしたのが、たくさんぶらさがっている。
安曇野に来て6年になるが、今まで見たことがなかった。こんな伝統行事が行われていたとは知らなかった。
「いったいこれは何ですか。」
ご婦人に訊くと、これは道祖神の祭りで、この上にもっと大きなのがある、そこは常念岳もバックに見えてよいと教えてくれた。
それを見てみたい、今来た道をバックすることにした。ランと一緒に八幡さんの横を通って、暮れてきた雪道をもどっていった。
五百メートルほど山のほうに上ったところに来て見回すと、以前見つけた畑の中にある道祖神の脇に、飾りが風に翻る柱が見えた。
雪のあぜ道を通っていった。ネコかキツネの足跡を踏んでいくと、小川の傍に昔の道がなくなり行き止まりになっているところに、道祖神庚申塔、二十三夜塔などの石塔がひっそりとたたずんでいる。
もう暗くなりかけていた。常念岳が夕映えのかげりをバックにそびえている。
人影は無かった。
色紙の飾りがかすかに風になる。
飾りのなかに福俵の飾りがあった。そこに御幣が取り付けられている。
気温はしんしんと下がり、体も冷えてきていたが、この発見は気分を高揚させた。
それから十五日の日曜日、もう一度行ってみた。
朝の七時過ぎだった。
塚原の集落の人たちが道祖神の周りに集まっていた。
聞けば、飾り柱を倒すのだという。
大人たちがいて、子どもたちもいた。
大人たちが柱を長年やってきた手順で、静かに倒し、飾りの中の巾着を子どもたちがはずした。
このお手玉のような丸い巾着は、また集落の一軒一軒に返されて、それぞれの家の軒先に吊るされるのだという。家々に配るのは子どもたちだ。
五穀豊穣を願い、家内安全を祈る、初春の道祖神祭りだった。柱の下のほうに、墨で御柱と書かれている。そういうことか、諏訪大社御柱とは一風異なる、その地の御柱祭がこんなところにあったのだった。
後に調べてみると、三郷地区では男性のシンボルも飾りつけられているらしい。
柱の正面はその年の恵方に向けて立てられる。
遠山郷の人のこんな文章があった。
御柱とは何か。この問いは、諏訪信仰を研究する人々にとって永遠のテーマです。おそらくは未来永劫、結論の出ない問題なのかもしれません。けれど当の氏子の人達にしてみれば、祭りの起源などたいした問題ではないはずです。大切なのは祭りを受け継ぐ固い意志と、その充実感なのではないでしょうか。
 皆で力を合わせて山から曳いてきた御柱が、天を衝いてそそり立つ。それを見上げたときの達成感なくしては、御柱祭もこれほどまでに大きな行事として発展してこなかったでしょう。 」

道祖神の飾り御柱を最初見たとき、頭にひらめいたぼくの印象は、チベットの丘の上になびくあのたくさんの色の小旗だった。
チベット人は、家の屋上などに、経文を印刷した魔除けと祈りの旗「ルンタ」(タルチョー)を掲げる。悪霊や災難を祓い清め、生きとし生けるものが平和で健康に過ごせるようにと祈願を込めて。