大鹿村へ、歌舞伎の郷は五月晴れ

 

    三日、南信濃大鹿村へ、洋子と二人、早朝5時から車を走らせて行った。国の重要無形民俗文化財大鹿歌舞伎を観るために。

    中央道を走り、松川インターで出て、南アルプスを前方に、大鹿村をめざす。快晴、新緑がむんむんと香りたち、日に輝く。道は次第に山の奥へ、いくつものトンネルをくぐり、川沿いに蛇行を繰り返して、谷沿いの大鹿村に午前9時前に着いた。歌舞伎の公演は午後、観客の受付は午前9時からだ。

    大鹿歌舞伎は、村はずれの小さな神社の境内で催される。今日一日だけの歌舞伎の公演、演じられる大磧神社は村はずれにある。車を降りると、四方の山の斜面はもくもくと広葉樹の新緑が盛り上がり、谷の真ん中を川が流れ、その景観はどこかで見た感じだなと思う。そうだ、かつて旅をしたオーストリアのチロルに似ている。谷間の山村では農業で生計を立てることはできない。日本では林業に頼ったが、チロルでは羊を飼い、それを産業とした。ここでは何を産業にしてきたのだろう。

    今日の大鹿歌舞伎が演じられる神社へ、車を駐車場に置き、でこぼこの石段を、ストックを突きつつ、膝の痛みを耐えながら息を切らして上った。あちこちに廃屋が目立つ。人口も減っているのだろうか。

    小さな神社は長く風雪にさらされてきたものだった。歌舞伎小屋はその横にあり、ケヤキの巨木と杉の大木に挟まれている。この建物も素朴で大屋根はトタン葺き、板壁も塗装がはげている。

    大鹿村歌舞伎は古い歴史を持ち、江戸時代・明和四年(1767年)の地芝居に起源をもつ。昭和52年(1977)、長野県無形民俗文化財に指定され、1984年に長野県芸術文化使節団としてオーストリアで公演、1992年にはドイツでも公演が行われた。1996年、国の無形民俗文化財に指定。そして2017年、国の重要無形民俗文化財に指定された。

    大鹿歌舞伎は三百余年前から、集落の神社の舞台で演じられてきた農村歌舞伎だ。幾多の危機、弾圧をかいくぐり、よくぞ生きて栄えてきたものだ。村人の高い意識の継承、それは奇跡的ともいえる。

    9時から受付が会場の前で始まった。神社の歌舞伎小屋の前には小さな広場があり、小草も生えている。そこにシートが敷かれ、座布団が並べられていた。ざぶとん席の両側には、折り畳みのパイプ椅子が置かれ、全部で観客五百人ぐらいだろうか。

    歌舞伎の演題は「奥州安達ケ原 袖萩祭文の段」。

 午後1時過ぎ、歌舞伎が始まった。朝は涼しかったが、太陽が照り付け、暑くなってきた。舞台の上で、村人の役者が見事な衣装を身に着け、朗々と台詞を語り、子役も見事な演技を繰り広げる。ドラマの高揚する場面では、観客席から声が飛び、硬貨を紙に包んだ「おひねり」が、バラバラと舞台に向かって投げられる。

 感動の歌舞伎は2時間ほどで幕を閉じた。見事な伝承文化を満喫し、心充ちて、日本のチロルから家路に着いた。

 芝居の初めに配られた紹介文に、次のような一節があった。

 

 「大鹿歌舞伎は三百余年前から、各集落の神社の舞台で演じられ、今日まで伝承されてきました。奉納歌舞伎として弾圧をかいくぐり、残されてきた大鹿村の地芝居は、隔絶された立地条件と、めまぐるしい社会の変化の中で生きてきた、村の人々の心のよりどころであり、祈りにも似たものであったと言えます。歌舞伎と言う芸能を受け継ぎ、地芝居を支えていくことは、大鹿村の人々の熱意と努力がつくりあげる、未来に向けての新しい伝統の創造でもあります。」

 

 伊那谷は、民俗芸能の宝庫と呼ばれるほど、伝承芸能の盛んなところであり、大鹿村小学校、中学校には、歌舞伎クラブがあり、村人のスタッフが歌舞伎を教えている。大鹿村「日本で最も美しい村」連合にも加盟している。郷土への愛、郷土を未来に向けて保存していこうとする熱意、それは、三百年の歴史を生きてきた芸能を、これからまた三百年は栄えていこうとする未来志向の意識を共有することでもある。