フィッシャーディスカウが亡くなった


 森田博さんは、ぼくが30代だったころ教育運動を共にした先輩教師であった。演劇教育の実践家で学校劇の脚本作家であり、障害児教育の教員でもあった彼は、情感のほとばしるような詩を書き、迫力満点の創作紙芝居を上演し、学校での厳しい職務の後も、多彩な才能を発揮しておられた。
 ぼくの自費出版第一作のエッセイ集、「ツチノコ探検隊」を出版する時、彼は暖かい表紙絵を描いて素晴らしい装丁をしてくれた。
 先日、ドイツの天才バリトン歌手、フィッシャーディスカウが亡くなったという報に接した。とたんに森田博さんの記憶がよみがえった。
 あの激務の時代、森田博さんはフィッシャーディスカウの歌うシューベルトの歌曲集「冬の旅」にはまりこんでいた。彼はレコード「冬の旅」を宝物のように大切にし、それを学校にも持ってきて、その歌を讃えた。彼は、家に帰ると寂寥感あふるるバリトン絶唱をひたるように聴いているという。フィッシャーディスカウの「冬の旅」を語る森田節に影響され、フィッシャーディスカウはぼくの心に移り住んだ。
 フィッシャーディスカウの歌う歌曲集には「冬の旅」「白鳥の歌」「詩人の恋」がある。シューベルトシューマン作曲になる美しい調べの歌詞のなかにハイネの詩があった。
 昔、日本の学生たちが愛唱した「人を恋うる歌」は、「妻をめとらば 才たけて」で始まり、二番は「ああ我 ダンテの奇才なく バイロン ハイネの熱なきも」と続く。歌は、作詞が与謝野鉄幹で、作曲は不詳。明治、大正、昭和とつづく激動の日本のなかで、ハイネを読む若者たちがいたのだ。
 シューマンの歌曲集「詩人の恋」のなかの第一曲はハイネの「素晴らしく美しい五月に」である。

 素晴らしく美しい五月に
 素晴らしく美しい五月に、
 すべてのつぼみが開き、
 僕の心の中にも
 愛が花咲いた。

 素晴らしく美しい五月に、
 すべての鳥が歌い出し、
 僕は彼女に打ち明けた
 僕の憧れ、僕の望みを。


 ハイネは愛の詩人と呼ばれている。ハイネは詩を書くことによって自らを救った。少年時代にフランス革命の思想にふれ、三十代半ばにドイツからフランスに亡命し、マルクスとも交流した。

  ぼくは あたらしい仲間と
  あたらしい船に乗りこんだ
  異国の波は ぼくをあちこちに運ぶ
  ああ とおい故郷 苦しいぼくの心

「あたらしい仲間」とはマルクスだと言う。

「1848年の二月革命のころから、ハイネは過労が重なり、病床にくぎづけにされてしまう。苦痛と悲惨、孤独と絶望の境を彷徨しながらも、ハイネらしい詩人の魂はもっとも激しく燃え上がった。運命がその身に課した天刑を、ハイネは天恵に変えることのできた稀有の天才詩人であった。外界から押し寄せる暗い波動、何よりもドイツにおける1848年の革命の敗北、その影響から受けた心身の混迷は、詩によってみごとに克服された。そして驚くばかりの精神的エネルギーが、息を引き取るまで革新的な文学的使命に燃焼した。言語に絶する苦痛から生じる憂悶や懐疑の闇間から、ハイネは人類の夜明けの方向をはっきり見きわめ、人間の自由と生活の権利のための闘いを続けたのである。」
この文章は、ドイツ文学者井上正蔵のものである。(「ハイネ詩集」角川書店