フィッシャー=ディースカウの歌、ベートーヴェンの苦悩と歓喜


 冬の夜、凍結したドイツの広野を、ボロ車を何時間も走らせ、フィッシャー=ディースカウの「冬の旅」の演奏を聴きに行ったのは、ドイツ文学研究者の小塩節が留学生のときであった。彼はレコードがすり切れるまで聴いたという。ぼくの昔の同僚だった森田博さんもそうだった。彼は、学校では障害児教育に専念し、詩や学校劇の脚本も書き、冬の夜はフィッシャー=ディースカウの「冬の旅」を聞いていた。ある日、レコードを学校に持ってきて、宝物のように同僚に見せながら、フィッシャー=ディースカウを称賛した。あのときの彼の顔を思い出す。もう40年も前のことだ。
 先日、図書館で、フィッシャー=ディースカウの「冬の旅」ではない、別のCDを見つけた。ベートーヴェンの歌曲集だ。ベートーヴェンの歌曲と言っても、ぼくの記憶にはなかった。それでもフィッシャー=ディースカウの歌うドイツリートだから聴きたいと思い借りて帰った。
 カセットデッキから流れ出した歌はもうすばらしいの一言だった。ピアノ伴奏曲による1時間を超える独唱に聴きほれた。ゲーテなどの詩人の詩に付けられた一曲一曲の個性的な熱唱、歌の豊かさにただただ感動した。CDの解説にヘルガ・リューニングが、「ベートーヴェンの歌曲だけでリサイタルを開き、一枚のレコードを録音することができたのはフィッシャー=ディースカウただ一人である。作曲家の代弁者となり、作曲家が書いた音で語りかけ、苦悩する恋人になったかと思えば、何かを象徴する自然に威厳と尊厳を与える、それができた人であった」と書いている。ここ数日ぼくはこれを聴いている。ベートーヴェンの代弁者となったフィッシャー=ディースカウは、何回聴いても心を打つ。
 ベートーヴェンは苦悩の人生だった。
 1770年の生まれ。音楽を習い、12歳で最初の作品を書いた。作曲とピアノ演奏に専心し、難聴に悩むようになるのは28歳頃からだった。耳鳴りは夜昼やむことがなかった。音が聴こえなくなれば音楽家として致命傷だ。絶望感が襲う。彼はそれを親しい人に言わず秘密にしていた。1802年、32歳のとき、ついに二人の弟あてに「遺書」を書いた。ベートーヴェンの苦悩の遺書だった。

 「6年この方、私の状態がどんなにひどいものであったか。はっきり診断できない医者たちによって容態を悪化させられながら、やがては回復するだろうという希望に年々歳々あざむかれて、ついに慢性病と見とおさざるを得なくなった。
 熱情的で行動的な気質を持って生まれた私が、こんなにも早く、人びとから遠ざかって、孤独な生活を送らねばならなくなった。障害に打ち勝ちたいと思うが、おお、その度ごとに、自分が聴覚障害だという悲しい現実にぶつかった、どんなにつらい思いをしたことだろう。私は人に向かって、『もっと大きな声で話してください、叫んでください、私はきこえないんです』、と言うことはできなかった。私にとっては、より完全でなければならぬ一つの感覚、かつてはこのうえない完全さをもっていた感覚、その弱点をどうして人前にさらすことができよう。おお、そんなことはとうていできない。だから、私はお前たちから離れて暮らしているのだ。許してくれ。私の不幸は私にとって二重につらいのだ。この不幸のために私は人から無視されるのだから。人びとの集まりに入ったり、繊細な会話をしたり、胸のなかを吐露したりして、そこに気晴らしを見つけることは私には許されないのだ。私は一人ぼっちだ。完全に一人ぼっちだ。やむにやまれぬ用事があるときでなければ、私は人中にはいっていけない。私は追放された人間のように生きていかねばならないのだ。人びとの集まりに近づいていくと、自分の病状が気づかれるような気がして、私は胸を締め付けられるような不安を感じる。
 私のそばの人には、遠くの笛の音が聞こえるのに、私には何も聞こえず、その人には羊飼いの歌声が聞こえるのに、私には何も聞こえない。そのときの私の屈辱感はどれほどのものだったか。私はほとんど絶望した。もう少しで、自分で自分の命を断つところだった。
 私を引き止めたのは私の芸術だった。ただこれだけである。ああ、自分に課せられた仕事を完成しないでこの世を去ることはできない。そこで私は、このみじめな生を引き延ばし、ちょっとした変化で私を最善の状態から最悪の状態におとしいれるような敏感な肉体をひきずって来たのだ。
 忍耐だと人は言う。私が今案内者として選ばねばならないのはそれである。そして私は耐え忍んだ。
 冷酷な運命の女神が、私の生命の糸を断ち切りに来るその日まで、耐えたいと思う決心が長く持続してくれればいいが。私の状態がよくなるにせよ、あるいは悪くなるにせよ、私の覚悟はできている。28歳にして早くもあきらめきった人間にならねばならぬというのは、容易なことではない。
 神よ、あなたは私の心を上から下まで見とおしていられる。あなたは私の心をよくご存じです。人に対する愛と、善いことをしたい望みが住んでいることをご存知です。
 弟たちよ、私が死んだら、シュミット教授が存命であれば、私の病状の記録をつくることを私の名でお願いしてくれ。そして病状の記録とこの手紙をいっしょにしておいてくれ。そうすれば私の死後、世間は私と、できるかぎり和解してくれるだろう。
 弟よ、人間を幸福にすることができるのは徳だけだ。金銭ではない。私は経験で言っているのだ。悲惨のなかで私を支えてくれたのはこの徳だ。私が自殺によって自分の生命を断たなかったのは、芸術のおかげでもあるが、この徳のおかげでもある。
 さようなら、互いに愛し合いなさい。私はすべての友人に感謝する。」(ハイリゲンシュタットの遺書から)


 遺書を書いてから、ベートーヴェンは自殺をふみとどまり、作曲に向かっていく。「魂は歓喜を求めている。歓喜をもっていないときには、つくりださねばならない」と。ベートーヴェンは協奏曲、交響曲を次々と作曲していった。
 ロマン・ロランは「苦悩の英雄 ベートーヴェンの生涯」のなかで書いている。
 一時、彼はまさに自分の生命に終止符をうちかけた。病気回復の最後の望みも消えていた。ただ彼の不撓不屈の道徳感だけが彼を引き止めた。そして断末魔のうめきから、ベートーヴェンはなお25年間生きながらえた。
 「彼の一生は嵐の一日に似ている。最初はさわやかに澄んだ朝。ものうい微風がかすかに吹いている。しかしすでに、動かない大気の中に、ひそかな威嚇と重苦しい予感がある。すると突如として、大きな影が横切り、悲劇的な雷鳴がとどろき、ざわめきのこもった恐ろしい沈黙が覆いかぶさり、猛り狂った風が吹き付ける。それが『エロイカ(英雄)』と『第五交響曲』である。それでも、昼の光の清澄さはまだそのためにそこなわれてはいない。歓喜は依然として歓喜である。悲哀も常に希望を持ち続けている。しかし、1810年以後は、魂の均衡が破れる。」
 それが第九交響曲として現れる。不幸な、貧しい、孤独な、苦悩する人間が、みずから歓喜を創造していった。世界の人びとへ。
 ロマンロランは、「英雄的な人間」とはどんな人かについて書いていた。
「思想あるいは力によって勝った人びとを、私は英雄とは呼ばない。心によって偉大であった人々だけを、私は英雄と呼ぶ。性格が偉大でないところには偉人はない。偉大な芸術家も偉大な行動人もない。そこにあるものは、いやしい、大衆のための空虚な偶像だけである。成功はわれわれにとっていっこうに重大なことではない。」
 苦悩の底にあえいでいる、不幸な、孤独な人たちのために、ベートーヴェンは暗闇の中で光を求め、自分の耳ではもう聴くことのできない「歓喜への賛歌」を歌いあげた。
 そして、つぎの言葉となっていく。
 苦悩を通って歓喜へ!