信濃美術館でのこと「飲むのは禁止です」

 カマキリの子どもたちが生まれていた


 信濃美術館で家内と一緒に絵を鑑賞していたときのことである。美術館では特別展「堀文子の作品展」、常設展「東山魁夷」が開かれていた。
 94歳の日本画家・堀文子、その作品は命の美しさと命の不思議だった。どの展示室にも十数人ほどの鑑賞者がいて、ひっそりと静まる館内の、ひたすら絵に見入る鑑賞者の眼にも命の輝きがあった。
 各部屋の中央あたりに若い女性の係員が立っている。これまで訪れた美術館では、作品の無事と客の状況を見守る係員は、ふつう部屋の隅のほうの椅子に座って目立たない存在なのだが、ここでは真ん中辺りに立って辺りを見回している。その姿に少々違和感を覚えた。どうして違和感なのか、その姿に監視の眼を感じるからだった。
 家を出てから1時間あまり経っていた。水分を取っていなかったので、喉が水を欲していた。持ってきていた小さな水筒の口をあけて白湯を一口飲んだ。その時すぐ横で声が聞えた。いつのまにかぼくの横に係員の若い女性が立っている。
「館内では飲食が禁じられています」
ぼくに告げる突然の声に軽い衝撃が頭にあった。全く思いもかけないことだった。
「私は体の症状で、水分を取らないといけないのです」
 ここ4ヵ月、腎臓結石の治療で水分を多くとるようにしてきて、そこへもって前日、不整脈が出て病院の診断を受け、血栓が詰まらないように血液濃度を下げるために水を多く飲むように言われていた。係の若い女性は、
「飲み物は、外で飲んでください」
と笑顔で言って離れていった。彼女は職務をまじめに遂行しただけのことであったが、ぼくには少々解しかねた。小さな水筒の白湯の一口が飲食になるのだろうか。ぼくは仕方なく展示室を出て、隣のがらんとした一室に入った。そこは出口に通じる部屋で、案内の係員の女性が二人、出口近くの机の前に立っていた。奥のほうに椅子が二つあったので、そこに二人で座って、持ってきていた水分補給のカン入りの飲み物を飲み始めた。ここなら絵もないし、鑑賞者も一人もいないからいいだろう。飲み始めたとたんに女性の一人がつかつかとこちらに近づいてくる。まさかここでもだめとは言わないだろう、と思っていたら、
「飲食は館内では禁止です。となりのカフェか、外に出て飲んでください」
 二度目のパンチだった。館内にはカフェがあった。そこならいいのか、しかたがない、そこへ行こう、とカフェの前でウエイトレスに聞いてみた。
「ここで飲み物飲んでいいですか」
一番手前の椅子を指して問うてみた。
「持ち込みはだめです」
びしっとした拒絶の声だった。三発目のパンチを受けたぼくの頭に憤りがわいてきた。なんという美術館だ。なんのための美術館か。ぼくは外への出口に向かい、先ほどの二人の案内役の前を通るとき、とうとう口をついて出た。
「カフェもダメでした。これではあまりに杓子定規ではないですか。人それぞれに事情があるのです。」
 二人は複雑な表情を浮かべながら無言で立っていた。
 堀文子展につづいて東山魁夷展を見た後、心に残ったことがあった。人は作品を観る、作品は人を観ている。作品はどんなふうに見てほしいと思っているだろうか。

 家に帰って夕食後に、家内が言った。
「あの人たち驚いただろうね。美術館で飲み物を飲むなんて考えられないことだから」
 飲み物は飲まないということは常識で、そのことは約束事になっているのだからと言う。
「飲んでもいいと思っていたの? 私は飲もうと思うこと自体考えれられない」
「展示場の中での飲食は禁止というのは約束事だろうね。しかし体の状態で飲み物を口に入れるのは、日ごろ仕事の最中もやっていることで、飲食禁止の規則とはすこし違うと思うよ。人に迷惑をかける行為はよくないし、大きな声で話したり、大きな靴音を立てて歩く人がいるけれど、あれはマナーに反するよ。」
 ぼくにとって水分を取るということは生理行為だ。息を吸うというのと変わらない生命行為だと思う。それをとがめることができるのか。鑑賞スタイルでも横になって観る人がいてもいいではないか。もしぼくが係なら、「どうぞ、こちらの場所でごゆっくりお飲みください」と、そういう場所へ案内するだろう。
 そんな夫婦の議論をしていたとき、ひらめいた。よし、このことを今晩の市民ネットワークの会で出してみよう。

 夜、集まった人に、一連の話を出してみた。すると、自然保育をしている依田さんがこんなことを言った。
「話を聞いて、わたしは日本の学校を連想しました。一人ひとりの子どもよりも全体の秩序を重視する学校という世界。それから世界の国々を比べた調査も思い出しました。日本は安全とか秩序とかでは世界でも上位にあるけれど、幸福度は低いという結果でした。私の知っている美術館の館長さんは、お客さんがゆったりと絵を観て、くつろいで心が癒やされる美術館にしたいと言っていました」
 心の安らぐ、解放される美術館の姿とはどういうものだろう。元ジャーナリストの横地さんがこう言った。
「美術館も変化していますよ。写真を禁止するというのもフラッシュはだめだけれど、撮るだけなら大目に見るところとか。彫刻もさわってもいいとか。」
 農業をしている山口さんは、
「いやあ、吉田さんの反骨精神に驚きました。私は常識で考えてしまいますねえ。飲むことも自制をします」
 話し合いは短い時間だったけれどおもしろかった。意見を聞いてみて、こんなことからもいろいろ考えられると思った。
 さて、ぼくは非常識なのか。もっと丁寧に職員に事情や考えを話すべきではなかったか。コミュニケーション不足ではなかったか。職員は忠実に職務を遂行した。しかし、もっと幅広い見方ができるようになってほしい。美術館当局はこのことをどう考えるだろう。