古本


松本の古い趣の漂う街中を歩いていて、ぽっと右目に留まった看板がある。「細田書店」の古ぼけた黒い文字。
あ、ここか。ときどき新聞に小さな広告を出していた古書店だ。
ガラス戸をがらがら開けて入ってみた。古本のなつかしい匂いがする。
東京神田の古書店も、大阪の古書店も、木造古民家のこんな感じの店が多かった。
6,7坪ほどの小さな部屋の、入ったところから書棚が奥に向けて立てられ、壁面も書棚が立ち、天井まで本が埋め尽くしている。
さらに書棚の前にも床から本が積み上げられ、人が通るところは一人分の幅しかなく、本に埋まりそうになる。
書棚の本を手に取るには、前に積まれた本の山の向こうへ腕を思いきり伸ばさなければ取れない。
ことりとも音がしない店の中に、店主はいないのかと、本の山の奥をのぞいたら、頭が見えた。
「こんにちは」
「はい、いらっしゃい。」
おばさんだった。火鉢にでも当たっているのか、座り込んでいるし、本が邪魔するし、顔以外はよく見えない。
「まあ、たくさんの本ですねえ。地震が来たらこわいですねえ。この前の地震の時はどうでした?」
「ああ、あの時は、私のこの後ろの本棚の本は落ちてきましたけれどね、その本棚は落ちませんでしたよ。」
おばさんの言う、ぼくの背中にある書棚の本は、最上段が天井にくっついている。
「上までくっついているから、本は倒れなかったんですねえ。」
書棚の本を順に見ていった。ずらずらずらと山岳関係の書物が多い。
穂高小屋を開いた今田重太郎の本、モーリスエルゾーグの書、冠松次郎の「山渓記」もある。
さすが松本の古書店だ。入ったところから本の合間を静々と向こう側の書棚に回った。
ここにも山岳書。
なつかしい人たちの名前がある。青年時代、あこがれた山の書が、ひっそりと書棚に並んでいる。
一冊、環境の本を買った。300円だった。おばさんは、薄い紙袋に入れてくれた。おばさん、一日ここに座っていて、客は何人来るのだろう。寒い冬空、人も通らない。


学生時代はよく大阪市内の古書店に行った。心斎橋方面に行けば、老舗の「天牛書店」に立ち寄るのが常で、梅田方面に行けば桜橋の古書店街をのぞくのが楽しみだった。その古書店街も道路拡張や都市開発で、ちりじりになって消滅した。
東京へ出かけた時は、神田神保町古書店街が楽しみで、数十軒はあるのか、あの通りの一軒一軒をのぞいて回る。
安曇野に移り住んで一年目、東京の会議に出席した折、古書を見に行って思いがけない本を見つけた。歩道から手に取れるように店の前の台に置かれた本のなかに、臼井吉見の「安曇野」5巻があり、赤い字で特価の札がついている。本はきれいな箱入りで、読まれた形跡はない。それが5巻3000円、買おう、瞬間的に決めていた。ずしりと重いそれを持って帰る時、ほくほくと胸が高鳴った。


20年前ぐらいからだろうか、奈良にも「BOOK OF」という大型の近代的な本のリサイクルショップがやってきて、年を取った田舎暮らしの身では近くにあるそこへいくのが楽しみになった。そこには音楽のCDもある。
奈良の御所市に住んでいたとき、年に一度、市の図書館が処分する本を市民に無料で提供する日があった。単行本は一人10冊、雑誌は5冊と限度を決めていた。毎年夫婦で20冊以上、思いがけない掘り出し物をいただいたなかに「昭和万葉集」(講談社)の宝がある。全20巻の新本だったが、ぼくはこれが全巻ほしかったものの、家内は「源氏物語」を選んだために、結局第一巻から第十巻をもらって帰ることになった。家に帰ってから、やっぱり「昭和万葉集」全巻ほしいとなって、翌日図書館に行ってみたが、二日目の最終日は「昭和万葉集」の後半は誰かがもらってかえっていて、もうなかった。
「昭和万葉集」は、昭和時代の前半の10巻、大戦をはさんだあの時代の歌をときどき読むと、人々の暮らしと心がひたひたと胸に迫ってくる。


臼井吉見の「安曇野」は、まだ読みきっていない。ときどき思い出したように手にとって楽しんで読んでいる。
今日も雪が降っている。
「春は名のみの風の寒さや、‥‥」
「早春賦」の世界もまだ少し先か。