運動する市民のネットワークをつくる


文章はよく覚えていないのだが、水上勉のそれを読んだときの自分の心の状態は覚えている。
深夜、水上勉のところに突然電話がかかってきた。
若狭からだった。水上の故郷は若狭、福井県大飯町。
電話の声は低く、声を押し殺すようにむせび泣く。
「勉さん、恐ろしいことが起こっているぞ。」
若狭は原発銀座と呼ばれる。
勉の親族だったか、友人だったか、声の主は、真夜中に耐え切れなくなって勉に話を聞いてもらおうと電話をしてきたのだった。
文章は、水上勉の恐怖を伝えていた。それを読むぼくもまた戦慄した。
水上の表現のなまなましさを今も覚えている。
原発という魔物が故郷を破壊し始めている。水上勉は抗っても抗いがたい気持ちを書いた。
無力、非力、‥‥
2004年(平成16年)9月8日、長野県東御市で水上は死去した。85歳だった。


 「その沖の岬には、東洋一をほこる出力百十七万五千キロワットの加圧水型原発炉が二基燃えていた。
文明はどこまでエネルギーを使うのかわからぬが、もうあとにはひけないぜいたくな生活になれたぼくも、安全信仰の一人として、若狭の国にうまるだろうが、誰がチェルノブイリの二の舞があり得ないと断言できよう。」


 「ぼくは父も母も穴を掘って埋めた。故郷はまだ火葬場をもたぬ。原始の人間生死を抱いて生きている。世界最先端のエネルギー生産ドームを抱いている。おお、この不思議な村に永遠の幸いあれ。」


「世界のどこをみても、せまい村の半島に東洋一の出力の原発が8基も密集している所はないって‥‥」
「五十年使ったあとの原子炉が、六百年もくすぶって残るという‥‥」
「きみのいうとおりいくら安全でつとめを終えても、発電炉はぼくらが死んだあと六百年も燃つづけてゆく。燃える棺桶‥‥」
「廃棄物をいっぱいだすが、いまのところその捨て場所が国内にはない。どこにも受け取り手がない放射能まじりのゴミを、十五基もある原発は将来どこへ捨てるのだろう‥‥」


3.11が近づいた。あれからもう一年がたつ。
この国はどこへ向かう。


夕方、突然電話がなった。
今から来るという。
住民を無視してリンゴ園のなかに建てられた産廃施設(民間業者)、その反対運動を進めてきた人たちだ。
三人がやってきた。話は単刀直入だった。
この七年間の市民の運動に政治は応えようとしない。
当該地区外の市民もまた無関心。
被害を受けるものたちの運動は差別され、特殊化され、孤立化に追い込まれ‥‥。
行政は被害者の側に立たない。
いま、新しく立ち上げようとしている「行政を変える市民の運動ネットワーク」はどうあるべきか。
どうしたら人はこれに参入し、大きくなっていくか。
迷い、焦燥、煩悶のなかから智恵を引き出す。
明日の会で白熱の討論をしようではないか。
若い一人と、高齢化瀬戸際の二人、そして高齢者の自分、
年齢なんか関係がない。
情熱をもつから三人はやむにやまれず、突如電話してやってきた。

原発をなくす運動も、
公害阻止の運動も、
住民自治を取りもどす運動も、
各種の市民の運動は、力を広げえず、
閉塞状態に置かれている。
そこを脱していく運動にもっていかなければならぬ。
そうするためにはどうすべきか。
議論は熱を帯びる。
議論をしよう。
あるとき、力が響きあって、燃え上がるときが必ず来る。
声を発しつづけよう。