時代を詠む・読む <「昭和万葉集」のなかの従軍慰安婦>

 「昭和万葉集」(講談社 1980年出版)は、昭和の時代を生き抜いてきた人々の想いを、四万五千首の短歌に託した国民の昭和史、全20巻である。収録されている短歌は、4万5千首にものぼる。奈良時代に編纂された万葉集は同じく20巻であるが、歌の数は4500。「昭和万葉集」はその10倍になる。
 「昭和万葉集」の1巻〜7巻は、主に戦争を収録している。
1巻 昭和元年〜5年/昭和時代の開幕
2巻 昭和6年〜8年/軍靴の響き 満州事変
3巻 昭和9年〜11年/2・26事件 軍国主義の台頭
4巻 昭和12年〜14年/日中戦争
5巻 昭和15年〜16年/大陸の戦火
6巻 昭和16年〜20年/太平洋戦争の記録
7巻 昭和20年〜22年/山河慟哭 焦土と民衆
 第8巻から後は戦後の社会や人間の記録である。
 ここに収録された短歌は、存在する短歌の一部に過ぎず、実際にはおびただしい数の歌が、都会や村で、田畑や家庭や職場で、学校で、戦場で、いたるところで詠まれていた。それは貴重な歴史と人間の記録であり、証言である。
 いくつか心に留まった歌をあげてみる。

 巻一にこんな歌が載っている。

     憤るべきを憤らざる習慣のわれにもあるをひそかに怖る
               
     自(し)が国の貧しさ思はず兵強きことをほこりて足れりとするか
                             山本友一

 この国のこの状況にたいして、憤らなければならないのに憤らない。自分もそういう習慣がある。それは恐ろしいことだと、ひそかに怖れる。そうして、国家権力のなすがままに国は進んでいく。自己凝視の歌である。
 後の歌は、「わが国の庶民の貧しさを考えずに、軍隊の強いことを誇りにしている。それでいいのか」、と。昭和5年の作である。
 与謝野寛、晶子夫妻は、昭和初期に中国へ渡り、中国の本当の姿を見た。

     わが兵士きて鹿柴(ろくさい)を立つるなり人の国なる瀋陽の市(まち)
                             与謝野寛

 瀋陽満州事変後、奉天市と改称され、日本の中国東北支配の基地になった。「この国に日本兵がやって来てバリケードを立てている、ここは日本ではない、人の国の瀋陽なのだ」、と率直な疑問と憤りである。

     若くして異国を恐れ遠く来て今日この頃は故国を恐る
                             与謝野寛

 若いころは異国を恐れていたが、遠くこの国に来て、侵略する日本軍の実態を見ると、むしろこのごろは故国日本を恐れる。中国で見る日本の姿に愕然としている作者の姿が目に浮かぶ。

     畑青く東三省は滅ぶなし煩らふなかれよき隣人よ
                             与謝野晶子

 妻晶子の歌。東三省は、中国の黒龍江省吉林省奉天のことである。畑に青々と作物は稔り、この三省は滅ぶことはない、悩み苦しむな、よき隣人よ、と晶子は住民への情を詠った。
 巻二には、こんな歌がある。

     政党を見限らんとする農民の心荒み(こころすさみ)を下心(した)憂ふなり
                             香川頼彦

     政治家をただにたのみに救はると思ふ農夫はいつか目さめむ
                             金子規矩雄
  
 治安維持法が制定され、思想統制が激しくなる。政治、政党、政治家は頼みにならない。政党を見限ろうとする農民の心の荒み。一方で、政治家をひたすら頼りにして、救われると思っている農夫たち。彼らはいつ目が覚めるのだろうと憂う。
 昭和8年、プロレタリア作家の小林多喜二が逮捕され、その日に虐殺された。それを知って中国の魯迅が送ったメッセージ、「我々は忘れない、我々は固く同志小林の血路に沿って前進し団結するのだ」。

     いきどほりかたみに胸にたたへつつ妻は稲わたす我は稲掛くる
                             岩城正春

 憤りの気持ちを互いに胸にたたえながら稲を干している。妻は刈り取った稲を夫に渡す。夫はそれをハザにかける。
 昭和12年(1937)、日中は全面戦争に突入、泥沼の日中戦争からついに太平洋戦争へ、戦線は拡大していった。

     貧ゆゑに空弁当の子もありき頭痛よそほひ昼食べざりき
                              佐々木大治

 貧乏ゆえに弁当を持ってこれない子がいる。弁当箱の中には何も入っていない。その子は頭痛をよそおい、何も食べなかった。教師の歌だろう。戦時中から戦後にかけて、昼ごはんを食べずに昼休みの校庭で一人時間を待っていた子がいたのをぼくも小学時代に見た。 

                      
     白馬岳を下りくる道の駅あてに君が召集の電報をうつ
                          横路百々作

 「白馬岳を下りくる道の駅」というのは今は白馬駅と名称を変えた信濃四谷駅のことだろう。君は白馬岳に登っている。召集令状が来たぞ、駅宛に電報を打った。召集令状が来てから入営までの日はわずかしか認められていなかった。

     戦に出でたつ朝は一巻の万葉集を背嚢(はいのう)に入れむ
                              梶谷善久

 出征する朝、一冊の万葉集を背嚢のなかに入れよう。自分の愛読する本を一冊ザックに入れて戦地に向かった若者がいたのだ。

     センセイシナンヤウニカヘッテクダサイと書けるみて戦の場(にわ)に君泣きなむか
                              滝川重人

 先生は召集され、兵士になって戦場に行った。「先生、死なないように、帰ってきてください」と児童は手紙に書いた。戦場でそれを見た君は泣くだろうか。思いやる作者は同僚のようだ。

     軍歌集かこみて歌ひ居るそばを大学の転落かとつぶやきて過ぎにし一人
                              近藤芳美

 大学のキャンパスで軍歌集を囲んで歌っている学生たちがいた。そのそばを「大学の転落か」とつぶやいて通り過ぎていった人がいた。学生も軍国主義に染まってしまったのか、と。
 朝鮮半島は日本の植民地になっていた。学校では日本人化の教育が行われた。

     千余り半島の子らいっせいに皇国臣民の誓詞となへつ涙ながれぬ
                              内野幸子

 朝鮮半島の子らは学校で、皇国の臣民であるという誓詞をいっせいに唱えていた。植民地政策による皇民化教育である。祖国を奪われ、民族の精神まで失わされようとしている。涙が流れた。
 そして巻四に、次のような短歌が登場する。

     今日着きし女ら群れて過ぎ行くを人垣越に背のび見てをり
                              栗林常雄

 女たちの群れが今日到着した。人垣ができて、女たちを見ている。その女性たちは何ものか。

     慰安所の女等憲兵に会釈して連絡船に乗り込み来れり
                              浅見幸三

 この短歌を収めた「昭和万葉集」のその部分の脚注に次の説明がある。

 慰安婦は戦線に従軍して将兵の相手をする娼婦。日本軍は仲介業者に婦女子を集めさせて従軍させた。軍属の扱いも受けられず、輸送も物同様に扱われることが多かった。また大量の朝鮮人婦女子を動員して前線に送った。将兵の階級によって、下から現地人慰安婦朝鮮人慰安婦、日本人慰安婦と、相手を特定したこともあるという。