信濃毎日新聞が掲載した<岩波書店と雑誌「世界」>

 諏訪市の中洲に、雑誌『世界』を読む会があるという。中洲というと、邦夫さんのところだが、そういう活動が続いていたとは知らなかった。2004年御柱祭のときに祭に参加させてもらい、八ヶ岳の森から伐りだした大木をたくさんの人で諏訪まで引いてきたことがあった。
 岩波書店を創った岩波茂雄は諏訪の生まれだった。出身地、中洲にある「信州風樹文庫」では毎月一回、雑誌「世界」に掲載された論文の読書会が開かれているのだというから驚きだ。信濃毎日新聞が、地域に生き続ける「岩波」を取材して特集していたということも驚きだった。2013年1月から8月まで、信濃毎日新聞文化面で連載したのが『本の世紀 岩波書店と出版の100年』で、それが単行本になって出版されている。長野県にはそういう気風があるのだなあ、と感慨深い。長野県須坂市でも毎年、著名な文化人を講師に迎えて『信州岩波講座』が開催されており、それは須坂市岩波書店信濃毎日新聞社NPO法人『ふおらむ集団999』でつくる実行委員会による企画であるという。
 企画のねらいは、岩波書店を中心に出版物が時代にどのような影響を与え、時代からどのような影響を受けながら出版文化が育まれてきたかを描くことにあったと、信濃毎日新聞長門均が書いている。
 いったい『信州風樹文庫』というものはどのようにして生まれたのだろうか。それについてこんなエピソードがあった。
 岩波茂雄は1913年(大正2)に、31歳で東京神田に古書店を開き出版事業も始めた。それから100年、「岩波」は時の政治や世論の流れと対峙しながら出版文化を築いてきた。諏訪の村に「風樹文庫」が生まれるのは、諏訪の地元の人たちの未来にかける思いがあったからだった。
「敗戦直後の混乱期にあった1947年、中洲村青年会の役員や教員3人が、夜行列車で上京した。向かったのは岩波書店。『岩波茂雄のような文化人を輩出した村に、岩波の本がそろっていないのは残念だ』との指摘を受けて、『これじゃいけない。本に飢えている皆のために寄贈してもらえないだろうかと行動に移したんです』。3人のなかでただ一人の存命者の平林忠明さんは当時を振り返る。」
 そうして、岩波書店のはからいで寄贈された201冊の本を、3人はリュックサックに詰め込み担いで諏訪に帰ってきた。東京往復は何度も繰り返された。リュックの時代が終わると、本は宅配便でほぼ毎月のように届いた。「文庫」が所蔵する本は今や4万冊になるという。「風樹文庫」の名前は、岩波茂雄座右の銘とした中国の古詩に由来する。
「文庫」は、中洲小学校につくられ、その後1993年に、諏訪市によって図書館として学校隣に新築された。運営は、住民が委員会をつくって行なっている。『本の世紀 岩波書店と出版の100年』の記事冒頭には、中洲小学校の子どもたちが下校時に立ち寄り、本を借りていく様子が書かれている。岩波書店からは児童書もたくさん出版されているから、子どもたちにとっても、下校時の一つの楽しみにもなっているのだろう。

 ぼくが中国の武漢大学で学生たちに日本語を教えた時、キャンパスにあった図書館によく行った。図書館は6階建てだったか7階建てだったか、とにかく大きな一つのビルだった。日本で出版された本は一つの階にあった。大きな部屋の真ん中に通路があり、その両側は背よりも高い書棚の列で、それが何十列もある。分類された本を眺めていくと、なんとまあ、かなりの書籍が岩波書店の発行したものだ。何万冊あるのだろうか、全冊寄贈されたものだったのだ。ときどき本を探しに来た日本語科の学生と出会うと、書架に並ぶ本を手にとって、会話が弾むことがあった。新刊図書は毎年送られ続けて今に至っている。ジョン・ダワ―「敗北を抱きしめて」は、この書架で見つけ借出して読んだ。

 信州では、塩尻出身の古田晁筑摩書房をつくり、茅野出身の小尾俊人みすず書房、上田出身の小宮山量平が理論社を創業している。いずれも日本の出版文化に多大の貢献をしている。
 信濃毎日新聞がこの企画記事でとりあげたもののなかに、「東日本大震災と雑誌『世界』」がある。大震災直後の「世界」の編集部は緊迫した。そして予定してきた記事を全部差し替えて「読者へ」と呼びかけるものとなった。
 「『生きよう!』。4月8日、店頭に並んだ『世界』5月号の表紙には、赤く大きな文字でこう記されていた。
『叫び、祈り、呼びかけ、それらを含んでいる言葉。タイトルはこれしかないと思った』と、岡本さん(編集長)。
『何があろうと、私たちはここで生きていく以外にありません。私たちはともに生きていこうという思いを込めて、生きよう!と呼びかけたいと思います』。‥‥
 通常より1割ほど少ない288ページだったが、震災から1カ月もたってはおらず、震災関連書がほとんど敢行されていない時期に、ほぼすべてを震災関連の論考にした月刊誌の発行はきわだっていた。編集部には発売直後から問い合わせが相次ぎ、初版の7万部に加え、早々に計1万部を決めた。月刊誌が増刷をするのは極めて異例。『(巻頭に載せられた)<読者へ>を読んで号泣した』『ようやく自分の思いと共通する雑誌を見つけた』といったメールやはがきも数多く寄せられた。」
 一連の「世界」の編集記事に対して、日本ジャーナリスト会議は、「総合誌論壇誌“冬の時代”にあって孤軍奮闘する月刊誌『世界』の健闘は特筆に値する。商業主義・多数派・俗論にあらがう鋭角的な言論空間を持続的に堅持している」と高く評価したという
 ぼくは、信濃毎日新聞が、このような特集を組んだことに、信濃毎日新聞の自覚と見識の高さに価値を見る。

 今朝、新聞広告に「世界」1月号が出ていた。珍しくカラー広告で、「世界」出版70年記念を示していた。