安曇踊りの復活を


 加藤博二の書いた「山の彼方の棲息者たち」という本がある。初版は昭和12年1月に「深山の棲息者たち」という題で出版された。昭和12年というと7月7日に、盧溝橋事件が起こり、日中の全面戦争になっていった年である。
 そのなかにこんな文章がある。
 「松本から信濃電鉄に乗って常念岳の麓に、豊科という人口五千ばかりの町があるが、ここが安曇節の産地である。冬地獄から救われて野良に働きだした百姓が、日本アルプスに残った雪を見上げながら、輪をつくって踊り唄うところに、安曇節のおもしろさがある。

  寄れや寄ってこい 安曇の踊り
  田から町から 田から町から 野山から

 本当にその通りである。春と夏とが一緒のように安曇野に訪れている。彼らはあわただしく田園の仕事にとりかかり、再び迫る冬までを楽しく唄い踊って暮らすのである。雪が融ければ、ホトトギスもウグイスも桜も梅の花も一緒である。
 この踊りは音頭取りを真ん中にして輪になって踊るのである。この踊りが始まると人が集まってきて、

   安曇踊りと 三日月様は 次第次第に円くなる

で、輪を大きくして、

   まめで逢いましょ また来る年も 踊る輪の中 月の夜

で、一段落をつける。それからが若人たちの嬉しい踊りになるのである。

   娘忘れたか 松の木のかげで くれたかんざし なぜささぬ
   わしはさしたい さしたいけれど そばにふた親ついている
   唄はさんざよ踊りもさんざ 誰かゆかぬか 豆畑
   豆の畑に 行かぬじゃないが 豆に葉がなきゃ おかしかろ

 こんな唄が高調になると、若人たちは次第に輪を離れて、好きな相手とともに盆の夜を楽しむのである。」
 筆者が、森林官として山で暮らした大正時代から昭和の初めには、盆踊りは安曇節が盛んに踊られていたのだろう。筆者は安曇節の歴史を、桓武天皇の時代、坂上田村麻呂までさかのぼると書いている。神通力を持った鬼賊を討伐しようと、田村麻呂がやってきて、村の娘たちに踊りをさせ、岩屋から出てきたところを討ちとったという。そこで安曇節の中に、

   岩にこもりし 魏石鬼でさえも 踊り見たさに出てござる

という一節があるが真偽のほどは解らない、と。
 私はこのブログに、安曇節のことを書いたことがある。今は、安曇野の夏に「安曇節」が聞こえてこない。松川村では「正調安曇節」が保存されているというが、他の旧北安曇郡、旧南安曇郡の盆踊りに、安曇節が踊られているという話を聞いたことがない。私が聴いて覚えたのは、山岳部に入って活動していた学生時代だった。テントのなかでよく歌った。当時、北アルプスに登っていた岳人たちはこの唄を知っていて、新たな歌詞をつくって唄っていた。全国の山を愛する人信濃愛する人が創作した歌詞は何万にもなる。

   ザイルかついで 穂高の山に 明日は男の 明日は男の 度胸試し

 安曇節の歌と踊りを復活させることができないものか。

「深山の棲息者たち」は、「山の彼方の棲息者たち」と改題して、2018年に河出書房新社が再刊した。