自然の摂理を崩壊させる文明


 

 詩人の坂村真民さんは、日本が高度経済成長期にあった1970年代、こんな気づきをなさっていた。
 「このごろの日本の子どもたちの面相が変わってきた。明治生まれの者には自然というものが、体に付着していた。わたしなども学校の行き帰りはもちろん、帰ってからも皆自然のなかで育った。川や山や、鳥や木が呼びかけ、その中で大きくなった。だから顔(面)にも、そんな自然がにじみ出ていた。ところが今の子どもには、この自然がない。恐るべきことである。学校にも自然はなく、家庭にもなく、遊びにもなく、小学生の時から塾通いをし、眼中にあるのは成績だけである。クラブで山登りしたり、スキーをしたりするといっても、自然とは全く没交渉で、あるのは技術だけである。
 西洋でも自然はなくなりつつあるが、西洋の家庭にはキリスト教の信仰があり、教会に行ったり、家庭ではお祈りしたりして、神の造り給うた天地自然を大事にする心を持って育つが、日本にはそれがない。ただ立身出世のための勉強一点張りである。だから今の日本の子どもの顔には、かつてあったあの豊かなペルソナ(面)がすっかり消えた。大変なことである。
 人間の面(ペルソナ)の美しさは、自然をその中に持っているか否かである。
 わたしは先年、初めて沖縄に行ったのであるが、きっすいの沖縄人のペルソナの美しさに感動した。ああ、ここには本当の人間がいると思った。」(『生きてゆく力がなくなる時』柏樹社


 30、40年前、子どもの顔が変わってきたと、坂村さんは感じられていた。敏感な感受性を持つ坂村さんは、それをキャッチされていた。戦後から現代まで、変化は、かずかずの徴候となって現れている。アトピー、いじめ、不登校精神障害などなど。
 あのころの子どもたちは今は親になり、そうして生まれてきた子どもたちの生活は今どうなっているだろうか。子どもたちの体、動き、姿勢、そこからも自然は消えていきつつある。
 頭を下げて、手元を見つめる姿勢、それが常態になってきている。手に持っているのは電子、電波の小さな機器である。
 胸を張って歩く、腕を振って走る、空を見上げて雲を眺める、梢でさえずる鳥を見つめる、足を忍ばせて虫に近づく狩人になる。シイノキの木に登って実をとる達人がいた。ヤンマとりの名人がいた。魚のひそんでいる秘密の場所を知っている子がいた。
 現代の子どもたちからそれらは消えてしまっている。


 坂村真民さんは、堤防の決壊寸前の川のほとりで考えた。
 「あと三時間降ったら堤防が決壊し、濁流が付近一帯に狂うように流れ込んでくるであろう。決壊寸前の堤防の上に立って、しみじみと天災ではなく人災だと思った。山や川が悪いのではない。風や雨が悪いのではない。悪いのは人間たちであることを思った。
 わたしは川にしても山にしても、自然のままにしておくことが大切だと思っている。ところが近頃の日本人はどうしてこうもいやな人間になってしまったのか、川の中にゴルフ場を作ったり、遊園地をこしらえたりする。山にはケーブルを敷いたり、登山道路をつくったり、観光旅館ができたりして、山を崩していくのである。
 山も遊んでいるのだ。川も遊んでいるのだ。大宇宙のものはすべて遊んでいるのだ。だからあんなに美しいのだ。これは昔から日本人の心の中にはぐくまれてきた美しい心情なのである。
 根本から治療しない限り、台風の来るたび、多くの犠牲者と損害は絶えないと思う。」


 自然のままにするということは、ほったらかしにするということではない。人間が、自然の摂理に沿って、必要とされる手を入れさせていただく、そうすることもある。
 福島原発事故は、人類が自然界の掟を破ってきた結果だと思う。


 ロマン・ロランの「インド研究」を坂村真民さんは自分の聖書のように読んだという。
 ロランがこの本の最初に「西洋の読者に捧ぐ」と書いている文章を坂村さんは紹介していた。
「私は川の多い国の生まれである。私は川を生きたもののように愛する。先祖の人々が川にぶどう酒や乳を注いでやった意味が私には分かる。
 すべての川の中で、もっとも神聖な川は、魂の奥から、玄武岩の岩間から、砂地から、氷河から湧き出る川である。そこにこそ、私が宗教的と呼ぶ始原的な力がある。それは芸術にも、行動にも、科学にも、宗教にも、はかりしれない千尋の闇を黒々とたたえるところから、やむにやまれぬ傾斜にそうて、意識され、実現され、支配された『存在』の大洋に流れて行くこの川に共通なものである。そして、水がふたたび水蒸気となって、海から立ちのぼり、天上の雲にいたり、河川の源を養うように、創造の輪は間断なくつながりつづくのである。」


 人間が自然(神)を無視してつくった原発は、この自然の創造の輪、大循環を崩していく。 
 現代文明はどこへ向かう。度重なる災害は天地の、人類への叫びだ。