人災

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 木曽川長良川にはさまれた岐阜羽島で数年間、活動したことがある。仕事が終わるとその地域をよく散策した。歩いていると、昔からの古い家が、高く土盛りして石垣をめぐらした上に建てられていた。「輪中(わじゅう)」と言われているもので、江戸時代住民が、水害に備えた水防共同体をつくり、洪水の被害を防いできたものだった。ところがその後、川の堤防が完備したから、もう決壊することはないと思い込んでいる人たちは、低い一帯に次々と家を建てていった。

 先般も気象予報士が放送で言っていた。「かつて経験したことのない猛烈な風と大雨」が襲うだろうと。

 そして、「予想もしない」甚大な被害が出た。

 神里達博千葉大教授)が今朝の新聞に書いていた。

 「災害とは、自然と社会の総合作用で起きるものだ。私たちがどういう暮らしを選ぶかによって、被害は大きく変わる。広い意味で、あらゆる自然災害は『人災』なのである。」

 同じページに、畑村洋太郎(東大名誉教授)へのインタビュー記事、「失敗を直視せよ」が掲載されている。

 「日本社会は、失敗に向き合うことが苦手です。世界中に、手本となるものを探しに行って、具合良くできあがったものがどこかにあれば、それを取り込むことにばかり一生懸命になった。ドイツもフランスも300年以上数々の失敗を重ね、痛い目にあっています。日本は明治維新から150年しか経っていない。失敗の蓄積が少ないがために、技術の危うさに気づく人が少ないのです。福島の原発事故から8年半たったのに、今なお全体を見るということができていないと感じます。日本社会は、福島の事故も形だけ学んだことにして、忘れようとしているのではないでしょうか。物事を深く考えず表面的な形だけ整えておしまい。そういう人が増えているように思います。」

 オリンピックを東京に招致するために、福島原発事故の被害は乗り越えたと吹聴してオリンピックを行い、そこへ首都直下型地震が起きればどうなるか、人びとはそうは考えなかった。起きると確証のないものは、起きないのと同じ、と考えたのだ。

 しかし、真夏の酷暑の東京オリンピックのマラソン競技に対する強い危惧が、酷熱のドーハのマラソン大会で選手が次々倒れることで呼び覚まされ、IOCは札幌マラソンへと変更を求めることとなった。

 スウェーデンのグレタさんが叫んだ危機感、地球の未来への警告、これを聞き流すことは、第二第三の巨大台風とフクシマを招くことになる。