サツマイモ収穫と種まき


サツマイモの葉っぱがチッソ過多か、茂りに茂った。
出来具合を見ようと、ためしに掘ってみたら、長い蔓をつけたままの株がすこんと抜けて、イモのかけらがちょろっと付いているのやら、全くイモの姿のないのやら、大きいのが空洞になっていたりする。
やられたか、ネズミだな。
何本か掘りあげると、ほとんど食われている。
もう少しイモが太るまでおいて、10月に掘ろうと思っていたけれど、もうこのままだと無事なイモも食われてしまうだろうと、全部掘りあげることにした。
よく茂った蔓を鎌で切りはらって掘ってみた。食害は懸念した以上だ。今年植えた50本の株は惨憺たるもので、収量は去年の三分の一ほどか。
かじられたイモにネズミの歯形がついている。
一昨年、ヒデさんもサツマイモを休耕田に植えていた。ところが、それがほとんどネズミにやられ、翌年は植えるのをやめたと言っていた。さいわいその時、ぼくの植えた100株は、ネズミ被害がなかったから、10株ほどのイモをヒデさんにおすそわけした。
今年まだは残り20株ほど別の箇所に残しているが、さてそこもネズミにやられていないか。
ネズミはモグラの穴を利用して土の中を移動し、イモや根菜類も食べるのだと、ここらの人たちは言っている。
我が家の庭の畑は、モグラの楽園だから、ネズミも大いに繁殖する。
残りの芋、食うなよ、食うなよ。


サツマイモを掘った後の畝に、大根、野沢菜、タマネギ、小松菜の種を播いた。
小さな小さな種を、一粒一粒、指につまんで播く。
直径1ミリほどの丸い種。
しゃがんで種をつまんで数センチ間隔で土に置いていく。
種を置く土の上を見つめる。
これまた小さな小さな動物が動いていく。1センチほどのムカデの子どもがいる。名前の知らない小動物が、生きている。
種を播いていると、しーんと心が静まる。
心が休まる。
草引きのときも、同じような心境になる。
手で草をむしりとるとき、なんだか心がさわやかになる。
機械を一切使わない手作業は人の心に安寧をもたらすものだなと感じる。
機械を使えば、種との距離、土との距離が大きくなる。小さな命の種も小動物も、一切見ることも感じることもできない。
圧倒的に効率が高いのは機械だけれど、
機械を動かすことと、動かした後の結果と、それだけを感じる世界だ。


種は店で買ってきたものだが、一袋全部播ききれない。いつもかなりの量が余る。
それを次の年に使う。種の袋に書いてある期限が過ぎていても、発芽は結構OKだ。
種によっては、3年経っても、発芽のパーセントは落ちるとしても、こちらの要求を充たしてくれる。
5日前に播いた、3年前のほうれん草の種から芽が出てきた。
白菜も同じ、残りの種から芽が出てきている。
今回、草木灰をたっぷり元肥に入れることにした。ヒデさんの稲刈り前の田んぼのあぜ焼きした灰をもらってきて、さらに我が家の廃材の木っ端と枯草を焼いてできた灰を土にすきこんでいる。


去年ご近所でもらってきた彼岸花の株から、最初の一本のつぼみが頭をもたげて出てきた。
彼岸花の株を下さった家に、お礼にサツマイモを持っていった。
その家の庭に、この辺りには珍しい彼岸花が咲く。
安曇野にぎっしり群がる彼岸花はない。
大和の野を彩る彼岸花が恋しい。