鉢呂氏辞任を考える



夏休みが終わって二学期が来た。
日に焼けた女生徒の顔を見て、「黒くなったね」と言ったとたんに、彼女は腹を立てて行ってしまった。
侮辱されたと思ったらしい。
乙女心を無視した発言だったのかもしれない。青年教師のころである。


あるとき、ある言葉に「引っかかる」。
「聞き流す」ことができないで、「聞きとがめる」。
そうして心証を害してしまう。
けれども「思い直して」、「聞き流す」こともある。
この辺り、心が微妙に動く。
人間の心の川を流れる「思い、考え、感情、気分」は複雑微妙で、相反する思いや考えが同時に心に生じて、心の中でもめることもある。
相手や場が変われば、腹の立つことが立たないこともあるし、腹の立たないことが腹立つこともある。
その言葉に「引っかかる」とき、そうなる条件が心の中にある。


今度大臣を辞任した鉢呂氏の発言は、記者と鉢呂氏との間であったことだった。それを記者は「聞きとがめた」。そしてメディアが報じた。発言は公の場にさらされ、野党がここぞと非難した。
ぼくの印象は、「またか」だった。
非難の声がかまびすしかったという印象もあるが、多くの世論はしらけていたのではないかと思う。原発被災地の人々の感情を傷付ける発言だと、攻撃する人やメディアは報じたが、被災者の側に立つように見せながら自分を棚に上げる姑息な正体がすけてみえて、政治家たちやメディア関係者はいつまでこんなことを繰り返すのかと憂鬱になった。


そうしたら、こんな投書に出会った。
「果たして辞任に値するような発言だろうか。特に『残念ながら市街地は人っ子一人いない。まさに死の町という形だった』という発言は、深刻な事実を率直に表現しただけではないか。チェルノブイリ周辺を『死の町』と報じたメディアはなかったのか。『放射能をつけちゃうぞ』も非公式の場でじゃれただけの話ではないか。私は宮城県に永住するつもりで家を買った。だが、それは津波で一瞬にして全壊した。鉢呂氏の発言を聞いてこみあげてきたのは、安全をなおざりにして原発の推進をしてきた者たちへの怒りだ。政治家や官僚、電力会社、学者たち、非難されるべきは事実を語った鉢呂氏ではなく『死の町』を生み出したこれらの者たちのはずだ。その責任追及こそメディアの仕事ではないか。悪意のない素直な表現にまで目くじらを立てていたら、だれも真実を語れなくなり、現実に即した政治などできなくなる。昨今のメディアの姿勢には強い不信を感じる。」(「朝日」要旨)


70歳の人の意見だ。
そして今朝、次のようなジャーナリストの意見が述べられていた。


「『死の町』に端を発する鉢呂氏の辞任騒ぎはグロテスクだ。それは政治が、肝心な問題を後回しにしたくて、こんなことにエネルギーを費やし、メディアがそれを助長したように見えるからだ。肝心な問題に向き合わずにすますために、政治家は失言問題に飛びつき、メディアがあおる。『死の町』をいくつかの英語メディアは『ゴーストタウン』と訳した。これはメディアにしばしば登場してきた。記者や住民の言葉として、現実を語る表現だった。『放射能をつけちゃうぞ』発言は、本人に思慮が足りないにしても、閣僚辞任までの事態の進み方は異様だ。メディアが問題にし、政治家が反応し、それをまたメディアが取り上げ、その度に騒動が肥大化し、肝心の問題を置き去りにする。そして閣僚の首が飛んで終わる。人々の心に残るのは政治とメディアへの不信だけだ。」(大野博人)


政治家の資質が気になる。
メディアの記者たちや編集者たちの資質も気になる。
スキャンダルジャーナリズムは、鵜の目鷹の目で「醜聞」を探し、時に針小棒大に情報化する。
それが彼らの飯の種だから。
国民の票によって選ばれた政治家は、メディアが気になり、
信念も理念も哲学も足りない政治家はそれに左右される。
政治家たちは権力を獲得するための対立構造のなかで、
まずは国会の、「罵倒マシーン」の「やじり屋」となる。
高額の給料を得て、やっているのは「ののしり」と見られても仕方のない人たちもいる。
現実の現場に身を置いて、国民の生活を直視し、多様な意見をくみ取り、それらの議論のなかから政策を生み出していくためには、
まずは聞く耳をもち、見抜く眼を持ち、考えを発言する力をもたねばならないのだが、
当地から国会に出ている議員の場合、その姿も声も、選挙区の住民には見えず聞えず。
彼はいったい何しているのだろう。