「チェルノブイリの祈り 未来の物語」<3>

 現代の日本人の頭に、チェルノブイリはどのように位置づいているだろうか。
 スベトラーナ・アレクシエービッチは、この本の最初に「見落とされた歴史について」と題してこんなことを書いている。
 「この本はチェルノブイリについての本じゃない。チェルノブイリを取り巻く世界のこと、私たちが知らなかったこと、ほとんど知らなかったことについての本です。‥‥チェルノブイリは私たちが解き明かさねばならない謎です。もしかしたら21世紀への課題、21世紀への挑戦なのかもしれません。人はあそこで何を知り、何を見抜き、何を発見したのでしょうか? 自らの世界観?
 この本は人びとの気持ちを再現したものです。事故の再現ではありません。‥‥私の暮らしは事故の一部なのです。私はここに住んでいる。チェルノブイリの大地、ほとんど世界に知られることのなかった小国ベラルーシに。ここはもう大地じゃない、チェルノブイリの実験室だと今言われているこの国に。ベラルーシ人はチェルノブイリ人になった。チェルノブイリは私の住みかになり、私たち国民の運命になったのです。私はこの本を書かずにはいられませんでした。」
 日本人は、アメリカによる「ヒロシマナガサキ」の、どれほど巨大な破滅をもたらせるかという核攻撃実験を体験した。41年後に世界は「チェルノブイリ原発事故」を体験し、さらに25年後、フクシマを体験した。これらの体験を人類史のなかの滅亡の記録、一人ひとりの人間の問題として共有し、普遍化させることができてこなかった。
 訳者、松本妙子は、アレクシエービッチのこんな言葉を紹介している。
 「チェルノブイリ第三次世界大戦なのです。しかし私たちはそれが始まったことに気づきさえしませんでした。この戦争がどう展開し、人間や人間の本質に何が起き、国家が人間に対していかに恥知らずな振る舞いをするか、こんなことを知ったのは私たちが最初なのです。国家というものは自分の問題や政府を守ることだけに専念し、人間は歴史の中に消えていくのです。革命や第二次世界大戦のなかに、一人ひとりが消えてしまったように。だからこそ、個々の人間の記憶を残すことが大切なのです。」
 この本の扉を開けると、短い一つの言葉がある。
  「われらは大気なり、大地にあらず……  M・ママルダシベリ」
 このママルダシベリという人はどんな人なんだろう。そして何を言わんとしているのだろうか。

 ■イワン・ジュムィホフ(化学技師)
 <事故が起きたのは1986年4月26日午前1時23分58秒。イワン・ジュムィホフはその年の6月22日に召集され軍に入隊した。そしてチェルノブイリ原発事故処理に入った。隊を引率した大尉が話した。20キロ圏内に行った者には2倍の報酬、10キロ圏内なら3倍、原子炉まで行った者には6倍にすると。兵士たちは計算を始める。6カ月働けば自分の車で家に帰れるぞ。ある者は逃げ出そうと考えた。しかし脱走は不可能だった。>

 放射線とはいったい何か? 誰も聞いたことがなかった。引率してきた将校たちもほとんど理解しておらず、知っていたのはウォッカを多めに飲まなくちゃならん、放射線に効くからということだけ。ぼくらは、テントに10人ずつ入れられた。家に子どもの残っているやつ、妻が出産間近なやつ、アパートの部屋を持っていないやつ。行けと言われれば行かねばならない、祖国が呼んだんだ、祖国が命じたんだ。ぼくたちはこんな国民なんです。
 汚染された土地の表面をけずりとり、車につみこみ、運ぶ。放射性廃棄物埋設地というのは、ただの丘なんです。ぼくらはなんの役にも立たない作業をしていることは、何千人もの者、みなが百も承知です。それでも毎朝起きては同じことをする。
 期間もなかばになって、線量計が支給された。とても小さな箱で中にクリスタルがある。こんなことを考えたやつらがいましたよ。線量計を廃棄物埋設地に置いてきて、一日の終わりに取りに行くんです。放射線量が多いほど休暇が早くもらえる、あるいは給料が多くもらえるんです。不条理劇ですよ。このセンサーは測れる状態になっていなかったんです。このおもちゃは目くらましのために与えられたんです。心理療法ですよ。倉庫のなかに50年ほどもころがっていたケイ酸製の装置だったんです。最初の数日にぼくらは理解したんです。土になるのはなんと簡単なことだろう。

 ■マラト・コハノフ(ベラルーシ科学アカデミー核エネルギー研究所元主任)
 <事故から一月後、研究所に家畜や野生動物の肉や牛乳などが検査に持ち込まれた。それらは放射性廃棄物だった。だがその牛乳が店で売られていた。国がウソをついて住民をだましていたのだ。汚染地で農民は畑を耕し、子どもたちが遊んでいた。コハノフたちは問いかけた。どうしたらいいのか。答えは「測定をしていろ。テレビを見ていろ」。緊急措置が取られていると信じ込んで、コハノフたちは測定をしテレビを見ていた。>

 はじめて汚染地にでかけたときのこと。村で成人と子どもの甲状腺を測定しました。許容値の100倍から1000倍もありました。私たちのグループには女性の放射線学者がいましたが、子どもたちが砂場にすわって遊んでいるのを見たとき、彼女はヒステリーを起こしました。母乳を検査する。放射能です。商店は営業中で、我が国の農村ではふつうのことですが、衣料品と食料品がいっしょに並べられている。スーツやワンピース、そのとなりにソーセージ、マーガリン、むきだしのままでビニールもかけられていない。レントゲン写真を撮る。放射性廃棄物です。
 あなたの質問にお答えします。なぜ私たちは知っていながら沈黙していたのか。なぜ広場に出て叫ばなかったのか。私たちは報告し、説明書を作成しましたが、命令には絶対に服従し、沈黙していました。なぜなら党規があり、私は共産党員でしたから。汚染地への出張を断った所員がいたという記憶はありません。それは党員証を返すのを恐れたからではなく、信念があったからです。私たちは公平ないい暮らしをし、我が国民は最高であり、あらゆるものの規範であるという信念があった。
 この信念が崩れ去ったため、心臓に弾丸を撃ち込んで自殺をした人が大勢います。信念を失い、信念を持たないままでいるなら、もはや参加者ではない。共犯者なんですから

 ■ゾーヤ・ブルーク(環境保護監督官)
 当時、私が原発に対して抱いていたイメージはひじょうに牧歌的なものです。原発はゼロからエネルギーを生みだす夢のような工場で、白衣を着た人たちが座り、ボタンを押しているんだと。チェルノブイリが爆発した背景にはこうした認識の甘さがあったのです。そのうえ情報は一切なし。……
 汚染された土を埋蔵するための政令がつくられました。土の中に土を葬る、なんとも不可解な人間のなせる業。通達に定められていたのは、地質調査を行ない、地下水脈からすくなくとも4メートルから6メートル離して埋めること。深く埋めないこと。穴の周囲と底にシートを敷き詰めること。でも、これは通達のなかのこと、現実は、当然のことながら別なんです。いつものことです。地質調査は一切なし。指さして、「ここを掘ってくれ」。掘削機の運転手が掘ります。「どれぐらい深く掘ったのですか?」「そんなこと知るもんか。水が出てきたからそこでやめたよ」。汚染された土は地下水のなかにじかに放り込まれたのです。……
 通達によれば、溝掘りの仕事をするトラクターの運転手は防護され、密閉されていなければなりません。実際、密閉された運転室付きのトラクターを見ました。トラクターが止まっている。ところが、運転手は草の上に寝ころんで休んでいる。「あなた、気でも狂ったの? 注意されなかったの?」「だから、ちゃんと頭を胴着でくるんでいるじゃないか」。人びとはわかっていないんです。彼らはいつも核戦争に備えておびやかされ、準備させられてきた。でも、チェルノブイリにそなえてじゃないんです。
 あそこはことのほか美しいところでした。古い自然の森が残っているのです。曲がりくねったいくつもの小川、流れる水はすみきった紅茶色。緑の草地。人びとが森のなかで呼び合っている。彼らにとっては、ごくあたりまえのこと、でも、これが全部毒されていることは周知の事実です。
 一人のおばあさんに出会いました。
「お若いの、うちの牛のミルクはのんでもだいじょうぶかね?」
 私たちは目を伏せる。住民と深くかかわるなと命令されていました。機転を利かせたのは少尉補でした。
「おばあさん、年はいくつですか?」
「もう八十すぎたよ。もしかしたら、もうちょっと上かもしんねえな。」
「それなら、飲んでもだいじょうぶですよ」
 農村の人たちがいちばん気の毒です。何の罪もないのに苦しんでいる。子どものように。チェルノブイリを考え出したのはお百姓じゃない。
 彼らは自然とかかわってきたんですから。百年も千年も昔のままの、信頼に満ちた、持ちつ持たれつの関係なんです。神が意図された通りの。だから、彼らは何をが起きたのか理解できず、学者や教育のあるものを信じようとしたのです。ところが、繰り返し聞かされたのは、「すべて順調だ。恐ろしいことは何もない。ただ食事の前には手を洗うように」。私はすぐにはわからなかった。何年かたってわかったんです。犯罪や陰謀に手をかしていたのは私たち全員なのだということが。……
 ひとりひとりが自分を正当化し、何かしら言い訳を思いつく。私も経験しました。私はわかったんです。実生活のなかで、恐ろしいことは静かにさりげなく起きているということが。