大岡昇平『俘虜記』


大岡昇平は1944年(昭和19年)、35歳で召集、フィリピンに送られ、ミンドロ島サンホセ警備の部隊に入った。
その年12月、アメリカ軍がミンドロ島に上陸、部隊は山中に退避する。
翌1945年、部隊は米軍に露営地を襲われ、俘虜となり、レイテ島の収容所に入れられた。


このときの俘虜体験を大岡は1946年から執筆、しかし米軍に関する記述のために発表されなかった。
発表できたのは、1948年「文学界」にであった。タイトルは、「俘虜記」。
「私は昭和二十年一月二十五日ミンドロ島南方山中において米軍の俘虜となった。
ミンドロ島ルソン島西南に位置し、わが四国の半分ほどの島である。」
の書き出しで始まる。


事実と折々の思考の記述は詳細を極める。
俘虜になるまでの日本軍の実態と、俘虜になってからの日本軍兵士の実態、そして大岡の頭にうずまいた思考は、記憶の断片までも書き記している。
貴重な記録文学である。
軍という組織のなかで個の兵士たちはどのように考え動いたのか。
組織論的にも人間論的にも示唆に富む。


「俘虜記」は戦争末期から、敗戦後までの体験を記録しているが、アメリカ軍の収容所にいた間に、原爆の投下があり、敗戦があった。
俘虜の兵士たちは、その置かれた情報断絶の中でも、原爆投下を知る。
彼らはどう考え、どう行動したか。


「八月十日」の、「俘虜記」の記録。
大岡は、英語が話せることから米軍将校の通訳になっていた。


「 俘虜の生活では、日付なぞ正確に憶えていられるものではないが、この十日間だけははっきりしている。
昭和二十年八月六日であった。夜、大隊書記の中川が中隊本部に入ってきて、その日広島へ新型爆弾が投下されたことを告げた。
『えらい力やそうで。一発で十マイル四方一ぺんやそうや。』
と彼はいった。
 中川は米軍の収容所事務所で得た情報を、自慢しに来たのである。私はかねて彼が敵の兵器の威力について、友軍のそれを誇るような調子で語るのを不愉快に思っていた。‥‥
 十マイル四方といえば広島全市をおおう広さである。この大災厄を彼がいつもの調子で語るのは聞いていられなかった。
『中川さん、いい加減にしたらどうだ。日本がやられるのがそんなにうれしいのか。』
彼はちょっと気色ばんだ。
‥‥
 爆弾の種類について中川は何も知らなかった。私はだいたい親子爆弾を想像した。
‥‥
(翌日午後)
 ウェンディ(収容所つきの米軍曹)が午後持ってきた『星条旗』紙の見出しのATOMICの六文字が私の眼を射た。‥‥
 私の最初の反応が一種の歓喜であったと書けば、人は私を非国民と言うかもしれない。しかしこれは事実であった。私はかねて現代理論物理学のファンであり、原子核内の諸現象に関する最近の研究に興味を持っていた。そしてコミュニストたちがその精妙な理論を、資本主義第三期的退廃の反映と呼ぶのに気を悪くしていた。それが爆弾となって破裂してしまえば、彼らもいつまでもブルジョア的空想などといっているわけにはいくまい。私はこれが火の発見以来、人類文化の画期的な進歩であると信じた。
 しかし次の瞬間、私は無論わが国民がその最初の犠牲となったことを思ってぞっとした。親子爆弾どころの騒ぎではない。『星条旗』の記事は、多少の威嚇的誇張をもって、以来二十年あらゆる生物は廃墟に育たないであろうと予言していた。私は種々の放射線によって身体を貫かれ、複雑な苦しみの後に死亡するたくさんの同胞を思って慄然とした。
 これは私が俘虜となって以来、祖国の惨禍によって真剣に衝撃を受けた最初である。戦艦大和による殴りこみや鈴木内閣の戦争完遂宣言は、いずれも不愉快きわまるニュースであったが、俘虜の位置にあっては、それは考えてみても仕方がないという意味で、重大な関係とはなりえなかったのである。考えてみても仕方がないのは、原子爆弾とて同じはずであるが、それがこれほど私に衝撃を与えたのは、たぶん原子核のエネルギーに対する私の迷信的畏敬のためであったろう。
『君は原子が何を意味するか知っているか』とウェンディが訊いた。
『知っていると思う。私はこれが歴史的な発明であることを認める。』
『なんて馬鹿だ。なぜ君たちは降伏しないんだ。我々はすでに寛大な条件を提供している。』
『日本の軍人がポツダム宣言を受諾するはずがないのは、この間我々が検討したとおりだ。』
『なんて馬鹿だ。』
『しかしあなたは原子爆弾をどう思いますか。』
『あまりにも破壊的だ。我々はこれを使用したことについて、将来自責を感ぜずにいられまい。』
とウェンディは憂鬱にいった。私は立ち上がり、
『おーい、広島の爆弾は原子爆弾だって言うぞ。』
と怒鳴った。みなが寄ってきた。中隊長は日本でもそれが研究されているのを知っていた。
『マッチ棒ぐらいの奴で軍艦いっぱいやっつけるって奴か。先にやられたか。ちぇ、気分こわしたなあ。』
『米さん、金があるからなあ。これで日本もいよいよ負けかよ。』と小隊長の一人が嘆いた。
 しかし、私は落ち着かなくなった。『なんて馬鹿だ』それはわかってる。今戦争を指導している狂人どもは、どうせ行くところまで行かなくては気がすまないだろう。国民が何発原子爆弾をくらおうと、彼らはいつまでも安全な地下壕で、桶狭間を夢見ているだろう。」


そこから大岡は自分の観念、感じ方について、そしてまた人間について考え始めるのだ。
記述はさらに続く。


本土はB29による焦土作戦で焼かれ、
沖縄は上陸作戦で民間人も殺され、
広島、長崎に原子爆弾は落とされ、
さらにソビエト参戦で多くの日本人がシベリアに送られ、
それら悲惨の限りなき進行にもかかわらず、大岡ら俘虜たちは十分な食料を与えられ、身の安全を保障されていた。
そのことについてもまた大岡は考えつづける。