歩きたくなる道を



日の出前や、日の入り後に散歩することはできるが、
日中のウォーキングはやりきれない暑さで、とても歩く気になれない。
けれど、人間は歩かなけりゃ退歩する。
歩いてこそ、感じるものがあり、気づくものがあり、思索もでき、健康にもなる。
しかし、どうしてこうも人びとは歩かなくなったんですかね。
地区のゴミだしの朝、ぼくはたいがい自転車か一輪車にゴミ袋を載せて、集積場へ持っていく。
ところが他の人たちは、みんな車だ。朝7時から8時までにゴミを出すことになっている。その時刻はもう日差しがきつい。


むしろ田舎のほうが、歩かない。
都会の公園では歩く人の群れがまだ見られる。
田舎には、歩こうと思えば歩くところはいくらでもあるが、
そこを歩くには、頭から日射に焼かれる覚悟がいる。
ここには、並木があって、木陰をつたいながら、日射にさらされずに歩くところなどどこにもないのです。
そんなことないでしょう、緑が一杯ありますよ。
なるほど見わたせば緑の木々がいたるところにある。
では一度歩いてごらん。
歩くのが楽しくなり、快適に歩ける、街路樹のある歩道がありますか。
歩く人に日陰を提供してくれる道はどこにもないのです。
だいたいが車道ばかりで、歩道そのものがありません。
烏川渓谷の散策道ぐらいなものです。
人間の生活空間に、歩くのが快適な歩道はどこにもない、
だのに庁舎は至れり尽くせり、数十億の金をかけてつくる。


発想が逆転しているのです。
新庁舎を建設予定になっているすぐ近くの市営プールが今年は閉鎖になり、この夏は水泳もできない。
プールの跡地は、庁舎の駐車場になるそうです。
子どもたちは、小中学校のプールがあるというけれど、学校のプールは親子で行けない。
そのうちプールは建設されるのでしょうが、
発想のなかに、人間の暮らしと文化にとって、いちばんの基本は何かというのがないように思う。
川はあるが、子どもが水遊びできる所がない。
道はあるが、歩きたくなる道がない。
樹はあるが、街路樹の下を散策する道はない。


この猛暑、自分の家の部屋でエアコンつけて、じっとしていなさいということですか。
我が家にはエアコンはありません。
家にとじこもる暮らしは、人間の暮らしではありません。
人類の歴史は、歩くという行為から始まりました。
歩くということがすべての始まりです。
公園などの公共空間で、楽しく、安心して休息し、ウォークできる条件が全く整備されていない文化は、滅びの文化です。