道の思想

                      ローテンブルグの小川


 この猛烈な日照りの中、犬を連れて散歩する人はいない。人間よりも犬の方が道路に近い。熱の照りかえしをもろに受ける犬は熱に焼かれてしまう。ランとの散歩は朝の4時代、5時ごろからで、6時になると太陽はすでに東山を離れて高く上がり、照りかえしはきつくなる。家内は夕方の散歩に出かける。午後4時過ぎはまだ熱射が強いから、ガンガラガンの暑さの中をどこを歩けばいいのか、日射にさらされないで歩ける道がない。盆地の周りを山や森が取り囲む安曇野なのに、生活空間に住む人は安心して歩ける木陰の道がない。
 ところが一か所、家内が見つけてきた。近くに企業団地があり、その敷地と敷地の間を通る道に500メートルほどの並木がある。行けばそこだけ木陰が続く。大きな工場による景観破壊を防ぐために工場の建物は平屋構造に抑えられ、敷地の周囲を針葉樹の高木が取り囲んでいる。工場の建物の大部分は樹木に隠れていて、北アルプスを背景にした樹木群が外観を好ましいものにしている。
 しかし木陰の道は、そこだけなのだ。山まで行けば森の風が吹き、清流も流れているが、そこまでは日常の暮らしの範囲で行けない。
 人と犬とが散策する文化の未成熟な日本は、熱射を遮り、快適に歩くことのできる道をつくることなど考えもしてこなかった。江戸時代は移動は歩くしかなかったから、歩く文化が発達した。街道には並木もつくられた。室町時代から道の一里ごとに一里塚がつくられ、江戸時代には庶民も全国の街道を歩いて旅をした。道の両側にはエノキや松が植えられた。今も残る日光の杉並木は、37キロに及び、樹木の数は16000本ある。
 しかし近現代の日本では並木の文化が無視され、木陰を歩く道がつくられてこなかった。この精神の貧困をぼくは慨嘆する。
 ぼくは52年前、ヨーロッパからインドまでのシルクロードを山仲間と探検の旅をした。7月から9月まで、夏の盛りの砂漠を越えた。その旅の憩いとなったのはオアシスだった。オアシスには水がひきいれられ、空高くそびえる樹木が木陰をつくっていた。子どもたちがナツメヤシの木に登って実を採っていた。オアシスは人の命を養い、安らぎを与え、キャラバンはモノと文化を伝えた。
 その5年後に歴史学者色川大吉氏らのグループがユーラシア大陸横断の旅をした。その紀行文「ユーラシア大陸思索行」のなかに「インドの『道』の思想」という文章がある。

 「インドは日本とは逆で、国道からそれて奥へ入れば入るほど豊かな感じが増し、道もよくなっていった。インドの『道』はまったく独特である。道幅は全体としては広いのだが、地方道の場合、舗装部分はトラックが一台通れるぐらいしかない。それが中央に一本あるきりで、その両脇には一段下がって、二倍以上もの幅のある広い緑の帯がとられている。そこは草道で、何億頭もいるという牛や、それを追う農夫、さまざまな野獣や野生の鳥たちが、白猿やリスなどと仲良くこれを使っている。私が驚いたのは、その緑の二車線が、インド的な人間と動物の楽園をなしているということだ。農夫が車を引いていく。それをそばで白い親子猿が見ている。野鳥の種類は数を知らない。彼らは文明の凶器、自動車が来ても、あわてふためく様子がない。私たちは生き物の殺生を禁じているインドという国の民衆の倫理の高さに驚かされた。そして、さらにこの緑の外側に、亭々たる街路樹が何百キロにも渡って続いていたのだ。並木は、二抱えも三抱えもある大樹が多い。それがまるで直射日光からの日覆いのような役目をしている。
 インドの民衆は、夏の暑い日はこの緑陰を伝わって歩き、またその下で飯を食い、眠り、談笑し、まるで民衆の広場のように活用している。岡倉天心の『東洋の思想』(天心が1902年、インドで書きあげた本)にも、そんな巡礼の描写があった。日本でも昔は、四国のお遍路さんのように多くの巡礼がおり、美しい松並木の街道を楽しんで歩いたものだ。インドの巡礼たちは、今でも一生に一度、ヒンズー教徒ならばベナレスの聖地へ行き、ガンジス河で身を清める。仏教徒ならば、ブッダガヤだとかナーランダへお参りするだろう。そんなときに、農村から農村へ、町から村へ、巡礼や行商人、牛や羊を追いながら行く遊牧の民、そういう旅人たちが、その街路樹の下を生活の場として大切に守ってきたのだ。
 自動車道路を真ん中にはさんで、近代と中世と古代とが、機械と人間と動物とが、うまく調和しながら機能している。これに対して、私たちが近代の常識としてきた『道』の観念は、なんとアメリカの追従であったろうか。なんと貧困なものであったろうか。日本は今こそ、インドの道の思想に学ばねばならない。」

 色川大吉が感動した「道の思想」は、今もインドで生き続けているだろうか。色川は、シルクロードに入るまでにヨーロッパを旅して、ドイツの章でこんなことを書いた。

 「ローテンブルグは、1274年に完全な市民の自治権を得てから大いに発展した。だが第二次世界大戦で戦火を受け、(中世の)街並みの多くを失った。その後、市民は崩れた石を拾い、木片を集めてもとどおり復興した。こうした情熱はヨーロッパの古い国々には共通したものだが、日本の国民にはほとんどない。『古いものは滅びるに任せよ』という日本人の一面の知恵を私も認めるが、今の『開発』の情況は異常と言わざるを得ない。特に、ヒロシマの中心部をそっくりそのまま残さなかったことは、日本にとっても人類にとってもかけがえのない損失だったと残念に耐えない。ヒロシマこそ“現代のメッカ”として世界中の巡礼をあつめる霊場になりえたからである。
 ‥‥ディンケルスピュールの城外の水ぎわの葦の茂みの間にたたずんで、日本の大和や明日香のことを思い浮かべた。せめてあの辺だけでも昔のままにとどめたい、古代の面影を子孫に残したい。それは単なる歴史家の感傷ではない。こういう抒情を喪失したこれから先の日本人の内面の空虚を思うのだ。
 ‥‥ロマンチック街道に入って三日目、私はアウグスブルグへの道を車で走りながら、夕日を浴びた壮麗な野や街を森を眺めているうちに、『これはとてもかなわぬ』という想いに胸を突かれた。『なにもドイツを模範とするわけではないが、日本はとてもだめではないか。自分が生きている間には、ここまでくることはできまい。』日本は今世紀に歴史遺産と自然を破壊しつくし、21世紀にまた自然を造り直すムダ骨を折ることになろうが、そのときではもう遅い。かけがえのないものは失って返らぬ。そう思ったら名状しがたい無力感に私はおちいった。」

 色川大吉のこの感慨は今から47年前のことだ。1970年は戦後25年、その時点ですでに、環境を護り、環境をつくる思想と方向が、日本は異常だった。水俣病イタイイタイ病四日市ぜんそく、光化学クスモッグ、滅びゆく大和、‥‥汚染、開発、破壊が繰り返された。オアシスは消えていく。経済発展こそが最優先、それが今も続いている。