錯覚・偏見・怒り





鶴見俊輔が怒りについてこんなことを書いている。


「人と人との間に生じる怒りって、だいたい錯覚から来るんですよ。
つまりほかの人に対して、自分が像を作って期待して押し付けようとして、
それがはずれるから怒りが出てくるんで、
『ああ、思いちがいをしたな』という感じが瞬時に働けば抑えられるし、
そういう人間関係をなるべく避けるようにできる。
竹内好が名言を残しているんです。
『偏見は楽しい。無知は楽しくない。』というんです。
人間は生きていくのに、いくらか斜めになって、ずっと突っ走っていかなきゃいけないんで、
ひずみがある。
偏見のない人間は自分らしく生きていない人間なんです。
それはだめなんですよ。」
                (鶴見俊輔『対談集 未来におきたいものは』晶文社


高齢者が何家族かで一緒に暮らしましょうとグループホームを立ち上げたところが、
住居の共同空間のカーテンの色をどうするかで、意見が対立し、計画がおじゃんになった、
という話を聞いたことがあった。
本当のことかどうか分からないが、あり得ると思った。
もっと寛容だと思っていたのに、その人はそうではなく頑固だった、
優しい人だと思っていたのに、なんだこんなに冷たい人だとは思わなかった、
なんて相手を思い違いしていたと思ったとたんに、心が冷めて関係を切ってしまう。


夫婦でも、親子でも、恋人どうしでも、
学校の教師と生徒の間でも、
友だち関係でも、
会社の上司と部下、同僚どうしでも、
隣人の間でも、
相手を「こんな人」と決めて、自分の偶像をつくっている。
これが偏見でもある。
その証拠に、相手を観る人によって、とらえ方が異なる。
鳩山元首相をどう見るか、これは極端な場合百八十度違うものになるだろう。
小沢一郎に対しても。


そこへもってきて、
「こうするのがいいのだ」、
「こうするのが正しいのだ」、
「こうしてほしいのだ」、
という自分の思いがあって、その考えを相手に押し付けようとする。


偏見があって当たり前、
と思えば、自分の思いを押し付けようとは思わなくなるし、
自分の思い通りにならなくても腹が立たない、
ということだろう。
ただし、無知はあきまへんで、
無知から来る偏見はだめですよ、
ということだろう。
偏見があって当たり前、だからいろいろ意見も違っておもしろい、
だが偏見の元に「知らない」ということがあるから、「知ろう」とすることは欠くべからざることになろう。


何も知らないのに知っているかのように判断し行動するから、変なことになる。
無知なジャーナリストが偏見をかきたてるのは、許されない。
無知な政治家がのざばるのは、許されない。
無知な官僚は困ったもんだ。