野の記憶    <7>

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  野の記憶 (「安曇野文芸2019・5」所収・改稿)

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 近現代の都市計画は、合理主義、経済性、利便性が支配した。

 「世界の町づくり」を研究した渡辺明次は、アメリカのこんな事例を紹介している。

 「社会が工業化し精神的な荒廃が進む中で、優しさや精神的に保護してくれる空間が必要になった。車社会のために多くの町は道路の幅を広くし直線にした。そんな町でいちばん人の集まる場が、道が曲がって狭く平らではなく、高低差のあるところになっている。そこが人間的で居心地のよい場所になって、人が集まり店ができている。」

 道が曲がっていて狭く、高低差のあるところというと京都の清水寺への参道が頭に浮かぶ。浪速なら「水かけ不動 」で親しまれている法善寺横丁が浮かぶ。

 路地に流れる空気は優しい。人間とネコと犬の道だ。

 子どもは蛇行する野の小道を走るのが好きだ。子どもの内なる自然なのだ。自然界は、生物も山も川も曲線。人間の体も内臓もすべて曲線。曲線は生命なのだ。自然の地形に合わせて作られた棚田は、美しい命の曲線を描く。葛飾北斎の版画「神奈川沖波裏」は曲線の極致であろう。

 だが現代社会は直線が支配する。都市は直線の世界だ。それを和らげ命を吹き込むのが公園の樹木や街路樹だが、行政は他の都合にこだわって街路樹を剪定し、勢いを封じる。

 現代農業では機械化によって高い効率性を求め、圃場も道路も水路も直線にした。コンクリートのU字溝になった直線水路にはドジョウもホタルも住めなくなった。

 「アメリカ大都市の死と生」を著したジェイン・ジェイコブスの、「人間的な魅力を備えた都市は、歩くということを前提としてつくられなければならない」という都市理念に、経済学者の宇沢弘文は共鳴した。

 「道幅が広くなく、曲がっていて、T字路を基本とし、歩道橋の類は避ける。歩道と車道は分離し、歩行者が自動車の影響を受けないように、街路樹などで遮断されなければならない。古い建物は多く残るようにする。」

 アメリカの大都市はほとんど死んでしまったとジェイコブスは言った。宇沢弘文は、日本の都市も「くるま社会」の限界に達しつつあり、都市の社会的不安定性、文化的俗悪は、不可逆的な被害を私たちに与えることになるのは間違いないであろう、と警告を残した。