文化と歴史の香る都市計画 <2>

 一市民の提案として、安曇野市の出前講座で発表したのは「歩く文化」を生み出そうというものだった。「歩くこと」を文化としてとらえ、考える。人類は「歩く」ことから長い歴史が始まったのだが、現代社会は車社会になってしまったために、歩くことが極端に衰えている。ぼくが朝夕、野を歩いて出会う人は、健康のために野を歩いている人と、犬の散歩をしているわずかな人たちだ。その人たちとは会話を交わすし、親しくなった人もいる。




       歩く文化の復活

 野を歩けば感じるものがある。思考が活発に働き、健康になる。景観、自然を観察し、何かをとらえる。美しい景色のビューポイントも発見する。
 森と山岳を背後にひかえ、村落の家並みを包む樹林は屋根を超えて高くそびえ、点在し連なり、樹幹がリズムを刻む。今ではわずかになった白壁の民家、土蔵が樹間に見える。珍しくなった養蚕の建物もほんの少しある。
 リズムとともにハーモニーを奏でる景観は樹木が美の重要な要素になって全体観を整える。庭に植えられた樹木が天をついて伸びる景観は芸術である。
 もしこの樹木群が消えたらどうなるだろうか。確実に中景の美は滅ぶ。民家の屋根を越して樹幹を伸ばしていた大ケヤキが伐られた現場を何度かウォーキングをしていて目撃した。美の構成に決定的な意味を持つ樹木が減っていると感じる。すでに子どもの「原っぱ」、雑木林はほとんど姿を消した。
 夏、強い日差しのなか大王わさび園へ行った。入口に着くとわさび園の駐車場はおびただしい車だった。水車の回る清流は詩的で美しく、高木にはさまれたわさび田の景観はすばらしい。だがこの景勝地はそこだけの点景なのだ。そこに至る道中はわびしい。穂高駅からわさび園までの道には並木の続く歩道はない。ほとんどの人が車で行く。
 「歩く文化」が衰滅しているのか。
 ぼくはこんな光景を想像する、こんな文化を創れないものかと。
 JRの穂高駅からわさび園まで、並木の続くパブリックフットパスがある。途中にすてきなカフェや茶店があり、オープンカフェでコーヒーを飲んでいる人がいる。要所要所にベンチがあり、高齢者も小さな子どもも足腰の痛む人もそこで休憩している。木漏れ日の下を歩いてわさび園に着けば駐車場は緑の林で囲われ車の姿は見えず、大王わさび園と川の清流は心の癒しをもたらす。
 こういう道をあちこちにつくれないものか。
 JRのすべての駅から「歩く文化」の道の構想を政策化できないものか。豊科駅からはアルプス公園まで、街を抜けて車の通らない野道を歩き、屋敷林のある下堀の集落から扇町の旧街道の木立ちの道を進み、オープンガーデンの家があれば訪れ、アルプス公園まで並木の下のウォーキングロードを散策しながら行く。南豊科駅からは趣のある中堀の緑の街路を抜けて拾ヶ堰沿いに上堀の集落に入る。これらのコースは既存の車の少ない道を利用すればいい。野道も利用する。標識は小さなものを分かりやすく設置する。
 1960年代に、大和の明日香から奈良公園まで、万葉の時代から続くという「山辺(やまのべ)の道」を歩いたことがあった。ところどころに小さな標識があり、村を抜け、寺に寄り、畦道を歩き、道をたずねて歩いてゆく。秋には彼岸花が畔を真っ赤に彩り秋が深まれば柿の実が色づいていた。万葉の歌碑を見ながら季節の自然と歴史を体感する楽しい一日、これぞ日本のパブリックフットパスだった。
 明治27年夏に、日本に来ていたイギリス人のウェストンは糸魚川から安曇野を経て松本まで歩いている。著書「日本アルプス登山と探検」によると、蓮華温泉に浸かり、白馬連峰を眺め、大町を抜けて松川村に着いたのは8日目だった。安曇野は桑畑と松並木のつづく長い道だった。ウェストンが歩いていくと村の小学校に通う子どもたちが、うやうやしくお辞儀をしてくれた。北穂高の「とうしや」という旅館で昼飯を食べて豊科に入ると、その年の三月の大火で六百戸のうち五百戸が焼け落ちていた。人びとは灰燼から不死鳥のように起ちあがろうとしていた。5キロほど行って梓川を渡渉した。松本の宿は、繭買いの商人で満員だった。
 ウェストンの歩いた千国街道、「塩の道」は、今はほとんど車道になった。古道は部分的に残っているが一本の歩道として復元されていない。
 豊科から穂高満願寺に至る栗尾道は、久保田地区に十返舎一九の通った道として標識が立てられているもののウォーキングロードとして保存されていない。松本から飛騨へ越えていく「野麦街道」も歩く道としては完全に保存されていない。木曽路の全宿場をつなぐウォーキングロードも未完のままである。数年前の夏、木曽路を通る国道19号線を外国人旅行者の男性が一人、ザックを担いで歩いていた。フットパスが無いために車の往来の激しい国道を歩かざるをえない。その姿を見て胸が痛んだ。今年の夏は、堀金地区の田多井の県道25号線を外国人の年配の夫妻が汗を流して歩いているのを見た。木陰もなく歩道もない陽盛り、熱中症の危険が叫ばれていた時だった。
 パブリックフットパスをつくれないものか。「歩く文化」を取り戻せないものか。
 歩く人が多くなれば、環境、景観への思いがもっと共有されるようになるだろう。

つづく