政治にかかわるみなさんへ!


 自転車の荷台に箱を積んだ人が、自転車を押して歩いていました。年老いた女性でした。その横を、トラックや乗用車がスピードを緩めずに飛ばしていきます。道路の脇には歩道はなく、草が茂り、すとんと下がって田んぼになっていますから、怖くて自転車に乗れないのです。左によろめけば車に跳ねられる。右に足を踏み外せば田んぼに落ちる。明らかに女性はおびえて、足がすくんでいました。大変な所に入ってしまったと悔いているように感じました。安曇野を南北に貫く広域農道を、住吉の交差点から三郷に向かう途中でした。
 どうしてそんなところを通るのか。旧村のなかへ入れば道がある。けれどもその道は途中で途絶えたり曲がったりして、迷ってしまいます。彼女にはほかに道がなかったのです。
 何度かそんな光景を目撃しました。
 これはいったいどういうことだろう。私はこれはこの安曇野市あるいはこの国の、重大な文化の欠落問題ではないかと思いました。
 最近市役所の支所の入口で「交通事故非常事態宣言」と書かれた立て看板を見ました。長野県は交通事故が増えているのです。
 私の家の前から集落に入るので、入り口に、「スピードを落とせ」という標識がカーブミラーの下に付けられています。道路幅が狭く、歩車共用、車の対向が難しいところで、道が曲がりくねっています。けれどもお構いなしに車が突っ走っていきます。これまで数件の事故が起こっています。昨日の朝、自転車に乗ってゴミを集積所に持っていくとき、背後からクラクションを鳴らされてあわてて自転車を止めました。クラクションを鳴らす人に感じるのは、
「どけ! じゃまだ!」
という意識です。車に乗ると、この意識が強くなるのではないかと思います。障害になるものを排除しようとする意識が、歩行者や自転車を「妨げになる存在」とみなしてしまう意識です。これには感情が伴っています。「歩行者は当然道を譲ってよけるべきだ」、車に乗ると、この自己優先意識がほとんどのドライバーに生じるのではないか。
 私は毎日野を歩きます。真横を車がスピードをゆるめることなく、走り抜けていきます。女性運転手もへっちゃらです。ブレーキを踏みません。車が優先ですよ、よけない人が悪いのですよ、そんな感じがします。しかし、高齢者はよろめくこともあります。子どもはいきなり飛び出すこともあります。もし私がよろめけば確実にアウトだと、車が通り過ぎた後に何度も思います。ときどき怒りが湧くこともあります。そんな近接したところを傍若無人に通過していくのです。そういうドライバーも、交通規則、マナーはよく知っているのです。知ってはいるが、走れば自己優先になるのです。
 どうしてこういう意識が生じたのか。このことを取り上げないで、「交通規則を守れ」と呼びかけるキャンペーンは、ほとんどの人には馬耳東風です。
 地域を歩いて目に入るのはほとんど車であり、歩く人はきわめて少ない。だから車目線、車意識が支配していく。
 本当の状況をつかむには歩かないと分かりません。歩いて直面しないと分からないのです。警察官は地域を歩いていますか。行政にかかわる人は地域を歩いていますか。私は全く見たことがありません。現場主義と言いながら歩くことのない人たちが、ほんとうの実態がつかまずに、政治を動かす。そうして偏頗な政策が進行するのです。
 日本の文化、人びとの暮らし、環境、教育、福祉、農業、それらの根底をつかむには歩かなければできないのです。直接触れないと感じとれないのです。
 市民も歩く人が少ない。歩く文化が育っていない。
 高額の資金を使って、一部の人しか使わないハコモノをつくるよりも、景色を眺めながら安曇野を縦断する「緑の並木が木陰をつくる、歩く人のための道」、自転車に乗って安心して走れる道」をつくる。人びとが外に出て憩い、出会い、笑いさざめく、文化を育む緑なすオアシス道をつくる。それは市民の新たな文化の発祥源になっていくことでしょう。
 私はこの十年ほど、このことを主張してきました。しかし行政に届くことはありません。