街路樹と樹林の価値

 仙台を出て東京の明治女学校で学び、安曇野相馬愛蔵のもとに嫁いできた相馬黒光の随筆「穂高高原」には、安曇野の空に突き刺さるような屋敷林の針葉樹のことが少し皮肉な思いを込めて書かれている。安曇野の屋敷林は各家の自己主張であり、アイデンティティでもあったのだろうが、今は日当たりが悪くなったり負担になったりして、木を伐りたいと思う人も出てきている。最近、よく散歩するコースにある家の大ケヤキとヒノキが数本、それは道沿いにあったのだが、伐り倒され切り株がなまなましかった。
 豊科の街から山麓のアルプス公園に通じる幹線道路がある。街に近いほうでは旧道を拡張し、山が近づく田園地帯では十数年前新しく道が造られ、そこはほぼ一直線で電柱もなく、ヤマボウシの並木が1キロほど両側の歩道に植えられている。この道を上っていくと彼方に常念岳がそびえ、すこぶる景観がよい。ところが、このヤマボウシ、まったく元気がなく生長していない。スス病にかかって、枝や幹が黒くなっている。あちこち歯抜けのように枯死し、伐られたのもある。見るからに哀れなボロボロ並木だ。
 街路樹、公園の木々、学校の校庭の木々、元気よく木の美しさを発揮しているものもあるが、枝を切り払われ、痛々しい木々がある。よく見るのは強く剪定されて委縮した木だ。
街路樹の役割、価値を指摘する記事を読んだ。<千葉大学大学院教授、藤井英二郎「街路樹の樹冠最大化が都市を豊かにする」月刊『世界 2月号』>。街路樹を「樹冠」をテーマにした論考である。都市の街路樹について書いている。
 両側街路樹の茂る道を車で行くとき、ドライバーの視線は静かに前方を向く。しかし街路樹のない道では視線は建物や看板に引きつけられ激しく移動する。歩道を歩く人の場合は、街路樹があると、1〜2割の人が車道側や歩道の中央を歩くが、街路樹がないとほとんどの人が車道の反対側、すなわち建物側を歩く。
 欧米の街路樹は、樹冠を広げて茂っている。樹冠とは、木の生長点、すなわち枝の先端部分で、幹から枝、そして樹冠によって木の姿が形作られている。欧米の街路樹は、日本のように枝切りをしない。伸び伸びと木は育ち、枝を広げている。見るからに豊かな木々の姿になっている。
 ところが日本では、日当たりや風通しをよくし、台風による倒伏を防ぐために、抑制剪定をする。落ち葉が迷惑だからという理由もある。
 この抑制剪定がエスカレートして、近年、太い枝を途中で切り落とす「ぶつ切り」が行われるようになった。その直接の背景には、道路管理予算の削減がある。予算の削減によって剪定回数が減り、回数を減らした分「ぶつ切り」をするようになった。この「ぶつ切り」が原因で、樹勢が弱り、腐朽菌が繁殖し、木々が次々と倒伏するようになった。腐朽菌の侵入原因には道路の掘削工事の多さもある。工事によって根が切られ、傷口から菌が入る。
 落ち葉に対する住民の苦情から、紅葉する前のまだ緑の葉の茂っている段階で、枝を切るということもおこなわれており、これもまた木の衰弱を大きくしている。
 街路樹の抑制剪定は、信号や標識を見えやすくするという理由もあるが、しかしこれは位置の工夫をすれば解決できることであり、街路樹のほうを犠牲にする役所のやり方を藤井氏は指摘している。安曇野では数少ない街路樹のうちの、あのヤマボウシの並木も多分予算は一切付けられてこなかったのだろう。樹が元気に育つようにお世話された跡がない。
 日本は街路樹貧困をつくってきた。しかし日本人はそのことをあまり意識していない。日本人は街路樹に対してはかなりの無関心があるようにぼくは思う。
 この街路樹の貧しさが何をもたらしているか、藤井氏はこう論じている。
 まず街路樹貧困は都市のヒートランド現象に拍車をかけている。都市の夏は耐えられない暑さだ。その結果が、熱中症の急増である。市民も行政も、「緑陰機能」の重要性をどう考えているのか。
 街路樹は、樹冠によって日射をさえぎり、葉からの蒸散によって気温を低下させる。さらに街路樹の植わっている土壌からも水分が蒸発し温度を下げる。街路樹の緑陰機能は樹冠の大きい木ほど効果が大きい。そして藤井氏はこう書いている。
 「街路樹の樹冠の大きさは、人の生理、心理にも大きく影響する。樹冠の大きい街路では、うるおいや、落ち着き、快適さなどを、より強く感じるとともに、落ち着いた眼の動きになり、さらに心拍変動性でもゆったりした状態(副交感神経系優位)になることが実験で示された。」
 コンクリートブロック塀と樹木の生け垣、それぞれが、人体に与える影響を脳波で調べると、コンクリートブロックは緊張感をもたらし、生け垣はリラックスをもたらす。騒音を聞いた後のストレス解消度の比較では、緑の環境のほうが生理的、心理的にリラックスをもたらす。
 藤井氏は、街路樹に限定して書いていたが、公園、学校などの公的な場所の樹木と緑陰については言うまでもないことであろう。
 さらに思うのは、枝葉を茂らせた広葉樹の新緑、花、実、紅葉の美しさと、そしてそこにやってくる小鳥や蝶、昆虫という生物の豊かさである。学校の校庭というとスポーツ・運動の場としてしかとらえない。学校のなかにこんもりと繁った緑陰があり、それが教育にどんな影響を与えるか、樹林が果たす役割をまったく考えてこなかったのではないか。
 日本では公共広場が育ってこなかった。市民にとっての広場の思想が育っていない。現代では、街の広場というと、駐車場の発想しか出てこない。
 市民の憩いのオアシスとして緑地公園が街のなかにあり、そこに馥郁たる雄大な樹木が枝を広げている。小鳥が来る。蝶が飛ぶ。
「ファーブル昆虫記」全十巻を2009年に新たに完訳したフランス文学者の奥本大三郎は、広葉樹を学校や大学に植える運動を推し進めていることを、以前ぼくはブログに書いた。奥本氏はこう述べていた。
「(日本の)街路樹では、プラタナスユーカリ、公園の木立でもヒマラヤスギなど外来種の植物ばかり。日本にもともといる昆虫が寄り付かないので虫害にあいにくく、管理するのが楽だから、役所は植木屋さんに丸投げしているのです。たとえば、小学校にエノキを植えれば都心でもゴマダラチョウは育つでしょうし、オオムラサキだって飛んでくる。そうした小さな森を各地に作るんです。なにもチョウが飛んでくるからだけで、こんなことを提言しているわけではありません。在来の樹木を育てないことは、文化の断絶につながるんです。日本画、俳句、和歌、日本の伝統的な芸術は、花鳥風月を基本としているんですから。」
 大切に守られている希少の古木がある。樹齢800年のクス、ケヤキ、1200年のムクなども見た。年輪を重ねた古木は有名になって、守られている。だが、樹齢50年、100年、あるいは200年ぐらいの木は、今も伐採されている。
 街路樹、公園樹林、学校林を、都市計画の教育と福祉のプランに位置付ける必要がある。 
 藤井氏は、近い将来起こると予想される首都直下地震をはじめとする大地震への対策として、街路樹は「防災機能を強化するうえでも重要」という。(つづく)