鶴見俊輔伝 <2>

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1996年、鶴見俊輔はこれまで発言してこなかった戦場の慰安婦の問題について発言していた。このことについて黒川創が記している。

 

 鶴見はこう言った。

 「慰安所は、日本国家による日本を含めてアジアの女性に対する陵辱の場でした。そのことを認めて謝罪するとともに言いたいことがある。

 私は不良少年だったから、戦中に軍の慰安所に行って女性と寝ることは一切しなかった。子どもの頃から男女関係を持っていた、そういう人間はプライドにかけて制度上の慰安所にはいかない。だけど、18歳ぐらいのものすごい真面目な少年が、戦地から日本に帰れないことがわかり、現地で40歳の慰安婦を抱いて、わずか一時間でも慰めてもらう、そのことにすごく感謝している。そういうことは実際にあったんです。この一時間の持っている意味は大きい。

 私はそれを愛だと思う。私が不良少年出身だから、そう考えるということもあるでしょう。でも私はここを一歩も譲りたくない。」

 これについて黒川は書いている。

 「こういうことを言えば反発が起こるであろうということは、鶴見にもわかっていたはずである。逆から言えば、もう少し的確な言葉づかいはありえなかっただろうか、ということである。たとえば、従軍慰安婦という立場に置かれた女性から、戦場で死んでいく少年兵士に贈られたのは、ある種の『慈愛』なのだと言うことはできよう。あるいは、愛は愛にしても、エロスからは聖別されたアガベー(自己犠牲)という言葉を充てることもできるのではないか。もし、そうした配慮が用心深くなしえたならば、あれほどの反発は避けられたのではないかとも思える。にもかかわらず鶴見はそうしなかった。それは、あえて、『愛』という無防備な(つまり、ここにはエロスの意味までが含まれる)言葉を用いたことにこそ、彼の意志があったと受けとるほかはないということである。10代なかばで、カフェや遊郭で働く年長の女性たちの世話になり、彼女らから施された愛によって、かろうじて自分は救われ、今も生きている。ここにまじる悔恨とともに、彼女たちに感謝し、このことを忘れない。自分と同世代の死地に赴いた少年兵士たち、彼らに代わって、世話になった慰安婦の女性たちに、いま、お礼を述べておく。ーーまちがった振るまいであるのかもしれない。だが、それを承知で、このとき鶴見が言い残しておきたかったものは、そういった気持ちあったのではないか。」

 

 ぼくは、いかにも鶴見らしい思考であり、態度だと思う。慰安婦にされた女性たちの惨めさや苦悩、人生を蹂躙された悲しみは言葉にあらわしようがない。慰安婦にされたのは強大な圧力によってだった。それをもたらしたものは、軍部であり政治であり、戦争であり侵略であった。それを弾劾する精神は鶴見俊輔の最期まで燃えていた。そして同時に慰安婦への想いもまた深かった。