吉野弘『種子について』 




もう1編、吉野弘の詩です。

        
        種子について
         ――「時」の海を泳ぐ稚魚のようにすらりとした柿の種


   人や鳥や獣たちが
   柿の実を食べ、種を捨てる  
   ――これは、おそらく「時」の計らい。


   種子が、かりに
   味も香りも良い果肉のようであったなら
   貪欲な「現在」の舌を喜ばせ
   果肉と共に食いつくされるだろう。
   「時」は、それを避け、
   種子には好ましい味をつけなかった。
   

   固い種子――
   「現在」の評判や関心から無視され
   それ故、流行に迎合する必要もなく
   己を守り   
   「未来」への芽を
   安全に内臓している種子。


   人間の歴史にも
   同時代の味覚に合わない種子があって
   明日をひっそり担っていることが多い。



柿の種は固くて食べる人はまずありません。
カボチャの種は、煎って食べたことがあります。戦後のことでした。今でも食べる人がいるでしょう。結構おいしかったです。
でも、ほとんど料理の時は、カボチャの種は捨てられてしまいます。
野菜類の生ごみは、我が家では土の中に返されるのですが、
カボチャの種からは必ず毎年芽が出てきて、今年もその芽を育てたら、りっぱな実、6、7個を結びました。
イカの種は半分ほどは捨てられ、残りは実と一緒に食べてしまいますが、柿ほど大きくないからそれほど気にならず、結局それらは消化されずに排泄されてしまいます。
播いたのでもない種子から芽が出てくる野菜は毎年いくつかありますが、カボチャのほかに、ミニトマト、ゴーヤがあります。
長い冬を越して春から夏へ、じっと種子は土の中で時を待っていました。



吉野弘は、身の回りのことや日常の生活を観察して、そのなかに潜んでいる気づかない真理を詩に書きました。
植物は、それぞれ自分の方法で種子をつくり、子孫を残します。
詩人は、そこから人間の世界を見つめます。

   人間の歴史にも
   同時代の味覚に合わない種子があって
   明日をひっそり担っていることが多い。

時の人になる「寵児」もいれば、
ひっそりと知られずに、未来のために種を残す人もいます。
時代に合わない、融通性のないものであっても、
未来に残していかねばならないものがあります。
後継者のいない伝統の職人技術、農林業
人間の精神性、生き方、生活スタイル、
考えれば諸々あります。
未来のために、固いからをかぶって、
命は受け継がれていきます。