三九郎(さんくろう) <2>




相馬愛蔵の妻、黒光が、穂高に嫁いできて生活をしたのは明治三十年から三十四年までだった。後にその時の生活を振り返って、エッセイ『穂高高原』を著した。出版されたのは戦争末期の昭和19年。
愛蔵、黒光は、安曇野を去って東京銀座に移り、パン屋「中村屋」を開く。
黒光は、それ以後、多くの芸術家の後援者となった。
「これほど細かく穂高の風土や生活習慣、村の動きを記述した書物を見たことがない。」と、『穂高高原』解説に当時の旧制松本筑摩高校の中島博昭が書いている。
黒光は、『穂高高原』のなかで『盆踊りとさんくろ』というエッセイを書いた。
そこで安曇野に多く見られる夫婦の道祖神と、盆踊りの後によく起こると言われた、青年男女の駆け落ちを関連付け、推理している。



          相馬黒光 『穂高高原』から


 「駆け落ちといえば、その見本のようなものが道々の岐れ道に経っていた。 
それはこの地方の道祖神で、ものぐさ太郎時代の伝説のかたわれかとも見られる服装の少年少女が手をひき、肩を組んで立っている像を石の表に刻んであった。それが庚申と、二十三夜塔と刻したものと、三基ならんで立っているのには、ちょっとした屋形を組んで祀ってあった。
 夏の盆踊りとともにもうひとつ若い者の遊びの三九郎火遊びは、正月七日、この道祖神の前で行われる。
三九郎は昔ある将軍の若君であった。
美しい姫と相愛して信濃のここまで逃げて来たが、折りしも大雪、白魔にまかれて倒れふし、すでにいったんこときれたのを里の者がみつけて助け起し、火を焚いて介抱したので息をふき返し、恋を全うして生き、ついに恋愛神として祀られるに至ったのであると、それもやっぱりおりんが言って聞かせたのであった。
 盆踊りも三九郎火遊びも私たちの見るものではなかったので、おりんや作男の浜がどちらも不完全にはしくれだけを話すのをきき、どうやら順序を立ててみると、
正月七日、歳神様のしめや松飾りを焼くについての行事で、各家庭よりわらを出し合い、
根から伐り出した榛(はん)の木を、枝えだまで太くわらぐるみにして、
三九郎の前の大地に掘り立て、
日が暮れるや合図とともに火をかけんと押し寄せるのが、十七歳以上二十四歳までの青年で、
この火を防ぐのが十六歳以下の少年たちの働きであった。
青年少年攻防の対立は真剣で、火遊び火祭りというがまるで戦争であった。
『若え、あにさまは』と、浜公は愛蔵のことをいって、
早くから学校の方に寄宿していたからこんな遊びの経験はないが、わしらには若い時の火遊びの味が忘れられない。
少年組は江戸の火消しのばれんのようなものを作って手に手に持ち、若いものが火を放ちに来るのを待つ。
夕方から始まって、八、九時頃は全村の老若男女見物に集まり、
戦いも最中、九時半にもなれば若者組みは二手に分かれ、
一手は少年組とたたかい、一手は火を掛ける。
少年組が隙を見て飛び込み火を消す。
火つけと火消しと揉みあって、双方決して負けず、
ついに両軍和協なり、はじめて火炎は天にあがる。
実に勇壮この上もない、と、
このように聴かれるのであった。
 盆踊りの踊り上手、声自慢がついに一つの恋愛悲劇を生むというなら、三九郎火遊びはもう少し野性を刺激しはしまいか。
『冬のそれが夏になって駆け落ちになる』と、
私にはこの田園の憂鬱にそんな暗示を受けるのであった。」
                      (『盆踊りとさんくろ』)


文中の「おりん」は、住み込みで家事、家業を行なったお手伝いさんである。
ここに言う青年と少年の年齢は、数え年であるから、満年齢で言えば、マイナス2歳して、15歳が分岐の年齢となる。昔の元服年齢である。
この「盆踊りとさんくろ」の文章は、若者の駆け落ちに関して考えていて、農家の次男坊三男坊が、盆踊りの晩に駆け落ちすることがよくあり、そのきっかけに、「三九郎の火祭り」が関係していると、黒光が考察しているのである。