雪の日は、何か曲を聴きたくなる。
2008年の春、碌山美術館で催された荻原碌山忌のイベントに参加した。その時、フォーク歌手、三浦久さんのギター弾き語りを聴いた。三浦さん自ら作詞作曲した「碌山」という曲と、井口喜源治の詩「次郎」に付けた曲、その演奏は、三浦さんの人生からくる枯淡の味わいがあり、すばらしかった。感銘を受けたぼくは、すぐさま美術館の売店で彼のCDを買った。三浦さんがCDに添付された解説書にサインをしてくれた。
連日の雪、何か聴きたいと思って、そのCDをかけた。聴けば、また心に碌山と井口喜源治がよみがえってきた。
明治の時代、黒光さんは、仙台から東京に出て明治女学校で学んだ。相馬愛蔵さんは、穂高から東京に出て、早稲田の前身・東京専門学校で学んだ。二人は出会い、黒光さんは、愛蔵さんの妻となって東穂高に住んだ。愛蔵さんの家は養蚕農家、愛蔵さんはカイコの飼育の改良にとりくみ、黒光さんはエッセイ「穂高高原」を書いた。
愛蔵さんと井口喜源治さんは同じ東穂高に生まれ育ち、明治22年に松本中学をともに卒業した。喜源治さんは小学校の教員になったが、その考え方や教育に反対する校長と同僚教員によって、小学校を追われた。
荻原守衛さんは、明治12年に彼も同じ東穂高に生まれた。守衛さんは小学校を出てから家の農業にたずさわり、よく喜源治さんを訪ねては、いろんな学問の書を読み、教えを受けていた。明治33年、守衛さんは喜源治さんと一緒に東京へ出て内村鑑三の講演を聴いた。
明治34年、喜源治さんは支援する村人の力を得て、小さな小さな学校を穂高につくった。学校は研成義塾と名付けられた。愛蔵さんと黒光さんは、喜源治さんの小さな私塾・研成義塾を応援した。東京からは、内村鑑三さんも研成義塾を応援した。
守衛さんは黒光さんに出会った。黒光さんは守衛さんに、あこがれの西洋芸術を伝えた。守衛さんはパリへ行く。パリへ行った守衛さんはロダンの影響を強く受けた。7年の後、守衛さんは日本にもどって彫刻家・碌山となった。
そのころ愛蔵さんと黒光さんは、穂高を去って東京に出、新宿にパン屋「中村屋」を開いていた。守衛さんは心ひそかに黒光を慕っていたが、かなわぬ恋だった。
中村屋の近くに、守衛さん(碌山)はアトリエをつくり、彫刻をつくった。
碌山は、1910年、急死した。30歳だった。
4月22日の碌山忌、三浦さんは、自ら作詞作曲した「碌山」を歌った。
それは 明治30年
安曇野の 春の初め
彼はあぜみちに腰をおろし
常念岳をスケッチしていた
三浦さんはギターを奏で、こう歌い始めた。そして黒光さんと守衛の出会いから、守衛さんの生涯を物語風に歌っていった。長い歌だった。
語り歌は最後の部分に入る。
ある晩 店の奥の部屋で
彼は突然血を吐いた
障子や畳を真っ赤に染めて
30年の生涯を終えた
その人は彼のひつぎをつかみ
人目をはばからずに泣き崩れた
その時その人は初めて知った
彼こそ魂の兄弟だったと
それから数日してその人は
彼のアトリエの鍵を開けた
その時その人の見たものは
彫刻台の上のひとつの像
両手を後ろに回し ひざまずき
何かから逃れようと身体をよじり
顔を上げ 光を求める自分の姿
その人はその場に崩れ落ちた
愛することに理由はない
愛してる時だけ 人は生きている
彼はそのためだけに 生まれてきた
愛する人の像を創るために
「その人」黒光をモデルにした傑作「女」の彫刻はいま、碌山美術館にある。
相馬黒光は「試練の村塾」というエッセイで、井口喜源治の研成義塾について書いていた。
「十五坪の小舎、後に二間に五間の裁縫室が建て増されたのみ。三十五春秋、研成義塾の構成はここから一歩も拡張が見られなかったが、内容は日に日に深く、井口喜源治の清教徒的精神は少年少女の浄き血となり肉となって、その成長に現れるものは他の村童のそれと異なり、一見して研成義塾生と認められ、あまり際立ちすぎるかの感さえあった。‥‥
研成義塾の教育は、教師と生徒ではなく、人と人とが相対し、教え子は一人ひとりの個性を師の前に呈示して、およそ一問一答的に、霊魂の陶冶をめざす教場であった。ここには個々の特性を没しがちであるという画一教育の無理はなく、全員ことごとくその持ち前を発揮して、長所はいよいよ伸張し、短所は直ちに指摘される。このような教育はいつの時代にもきわめて有意義に、小規模ながらも使命を達成し、忘れられてある間に意外の人材を社会に送り出す性質のものであることを私どもは今も変わらず信じている。
かくて井口氏の努力は十年一日のごとく、この穂高の郷に、研成義塾の浄地を護ってつづけられ、昭和4年には創立三十年の記念式を行なうまでになり、それまでの卒業生を数えると600名という、小さな塾舎がいつそんなに多くの少年を収容したかと驚くばかりである。」