野の記憶    <8>

 

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 野の記憶 (「安曇野文芸2019・5」所収・改稿)

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 年を経て、妻と二人大和から安曇野に移住した。白馬岳に連なる青春時代の懐かしい山々を見ながら毎日野を歩く。

 数年前の安曇野市発行の「シティマップ」に、「わが区の紹介」という記事があった。安曇野市には83の居住区があり、その全区の景観紹介が載っている。各区の住民の代表が書いたのだろう。いわば「わが区自慢」だ。読むと、北アルプスの山岳をあげた区は24。田園風景をあげた区は14。湧水池、わさび田、白鳥湖、大樹、祭、道祖神、美術館などの個別の近景をあげた区は17だった。やはりそうだな、と思ったのは、「街並みの美」を挙げた区がひとつも無いことだった。もっとも生活に身近な街路や家並み、町のたたずまいが、とても美しいと思えない、そういう現実があるということ、そのことをこの資料からも痛感する。

 僕は安曇野市を貫く幹線道路の広域農道沿いの看板が気になり、9年ほど前、南端の松本市との境から北端の松川村との境までその数を調べてみた。この道路からみる景観が美しいのに、それをぶっ壊す看板、これが日本の文化なのかと、たまらなくなって一人で調べることにしたのだった。道路を行くと視界に入る近接の看板、数え方によって数に変動があるだろうが、おおよそ数えた看板の数は350だった。それから4年後、また数えると、野立て看板と道沿いの建築物付属の看板の数は450に近い。政治家の無神経なポスターも放置したままである。市の条例で看板規制が行なわれるようになって、いくらか抑えられているようには感じるが、EUでは考えられない看板と幟である。

 長峰山に登った。雪嶺を背景に木々の茂る緑野が広がる。常念と蝶ヶ岳に登る。青春の槍・穂高岳が待っていた。遠景はなんとも美しい。

 野を歩くと、高木が民家の屋根を超えて連なり、リズムとハーモニーを奏でる風景にも出会った。

 だが伝統的な建物は減っていた。養蚕に使われた古い建物が不要物として解体されるのを見た。結局これを文化財として保存しようという意識も動きもないことが分かった。安曇野の各地に新興住宅地が生まれている。それが景観にどのような働きをしているか。ほとんど高木らしい木が新興住宅地には無い。家屋群が丸裸なのだ。

 明治時代、仙台から安曇野穂高に嫁ぎ、相馬愛蔵と結婚した相馬黒光は、「穂高高原」というエッセイを著した。時は国木田独歩の「武蔵野」にほぼ重なる。

 「私は泉のほとりに来た。榛(はん)の木ばやしは手をつないだように泉をめぐり、みぎわに影を浸すけれど、泉の上はまるく空があらわれて明るい。新鮮な、なんという新鮮な気持ちがしばらく私を浸すのであったろう。屋敷地は径(みち)の彼方で切れ、露出した断崖の上に哲人の小屋がたたずみ、後ろに大きな桂(かつら)の木が、なにか哲人と申し合わせたような居ずまいである。ウォーズオーズの詩は今ここにあった。」