三九郎 <1>




マユ玉を焼く子ら


九日、夕方。
「久保田の三九郎が始まるよ。」
とランちゃん散歩から帰ってきた洋子が言った。
常念岳をバックに、三九郎がすごいよ。てっぺんに達磨が取り付けてあるよ。」
工房の壁に断熱材を入れる作業を中断、写真をとりにいくことにした。
隣村の久保田の三九郎。
明日は、我が地区の三九郎だ。


点火の前に、組み立てられた三九郎を写真に収めるか。
着替えて自転車で走った。
久保田の子どもたちや大人が寄っている。
急いだが、間に合わなかった。
点火された三九郎の火は勢いよく燃え上がっている。
火はまたたくまに円錐形のやぐらのてっぺんまで這い上がる。
やぐらの上に、五、六個の達磨がくくりつけられているのが見えた。
三九郎の北側のクルミ林から写真を撮った。
子どもたちが、マユ玉を付けた柳の枝を持って火を眺め、歓声を上げている。
燃える三九郎の向こうに、雪をいただいた白馬連峰が見える。
やぐらの中の注連飾り(しめかざり)や門松が燃え尽きると、遠巻きしている人たちの一角にいた消防団員がやぐらを倒した。
歓声が上がる。
倒れた木々が燃える。
子どもたちは火の周りを取り囲み、熾き(おき)の上に、マユ玉をかざして焼き始めた。


三九郎は小正月に行われる子ども中心の行事で、
しめ縄・松飾り・達磨、書初めなどを集めて燃やし神送りをする。
その燃え残りの火で、子どもたちはマユ玉を焼く。
米の粉で作って柳の枝にくっつけた団子は、蚕のマユに似ていからマユ玉と呼んでいる。
マユ玉を食べると、一年間元気で過ごせると言い伝えられている。


三九郎の語源がよく分からない。
どんど焼き」「左義長」の流れだが、名前がおもしろい。
名前の由来には諸説あるが、確定できないらしい。
昔は「三九郎」に火をつける前に、
「さんくーろー じんくーろー 、じっさとばばさでまごつれて さんくーろーにきておくれ」
と歌いながら子どもたちが村内をねり歩いた、とか。


翌10日朝、地元部落の子どもたち6人が、我が家の注連飾り、松飾りを取りに来た。
「炭、いりますか」
と女の子が聞く。
「はい、2.3本、ください。」
「はい」と答えて女の子は紙切れに名前を書いた。
三九郎の燃え残りの松の木は、後から届けてくれる。
それを家に置くと、無病息災だとか。
毎年届けてくれる焼け松は集めて、庭のちょっとしたアートになっている。
午後、公民館に集まった小学生の子たちは、大人の用意した米粉の団子を丸めてマユ玉をつくり、柳の枝に取り付けていた。
できあがった柳の枝のマユ玉を持った子どもたちは、桜並木の東の田に集まった。
組まれた三九郎に火がつけられ、たちまち炎の塔が立った。
燃え落ちて崩れた熾き火で子どもたちはマユ玉を焼いた。
ぼくも一本、柳の枝につくって焼いた。


300年を越えて伝わってきたこの行事は、大きく変遷している。
そのことを知ったのは、相馬黒光のエッセイを読んでからだった。
黒光の伝えている戦前の三九郎は、15歳以下の子どもたちと若者たちが、血湧き肉躍る闘いを繰り広げる激しいものだった。
地区の人たちに訊くと、昭和20年代の三九郎は、、柱にする松の木を子どもたちだけで山に入り、とって来て組み立てた。
地区ごとで三九郎は行なわれ、他の地区の三九郎を攻撃する争いのようなことも起こった。
他の地区の子どもたちが燃やしに来る、こちらからも燃やしに行く、
子どもたちは、寝ずの番をして自分たちの三九郎を守った。


相馬黒光がエッセイに書いた三九郎は、次に書いてみたい。