三九郎 <3>

       その名前の由来



今朝の雪


豊科の太極拳の会で、「三九郎の名前の由来が分からないですねえ。」と話していたら、
会員の武居さんが、資料を持ってきてくださった。
その話は、相馬黒光の話とは異なるものだった。

       ▽     ▽     ▽

「『どんど焼き』『左義長』と呼ばれる小正月の火祭りは、なぜ『三九郎』と呼ばれるのか。
地域の民俗を調べている浜野さんは、私見として、
松本城の初代城主、石川数正の長男で二代城主の康長に由来するのでは、という。
島内村生まれの民俗研究家、胡桃沢勘内(1885〜1940)は著書で、
『三九郎とは、福間三九郎と呼ばれた神霊を乗り移させる童子であり、、祭りを執り行う子どもらの大将がこの役になって、
水を浴びせられ、食べ物を強いられる風習があった。』
と述べている。
三九郎は実在の人物か、なぜ「三九郎」の名称が松本地方に限られているのかが分からない。
浜野さんは、明科光にある宗林寺を訪ねたとき、石川数正夫妻の供養塔の存在と、この寺を中興したのが石川三九郎と伝わっていることを知った。
三九郎は、玄蕃頭(げんばのかみ)康長の幼名と伝えられている。
慶弔18年(1613)、病死した幕臣大久保長安の生前の陰謀が発覚し、長安と親しかった松本城主、石川康長は改易されて豊後(大分)に移された。
すると、松本城内に疫病がはやったり、天変地異が起こったりした。
領民は、本人に落ち度のない罪を着せられて改易になった玄蕃頭のたたりだと考え、従来からあった道祖神の火祭りに霊の退散を託したのではないか、すなわち、たたりを恐れる領民による鎮魂の儀式ではないか。
三九郎火祭りのときに、子どもたちがみだらな歌を歌ったことを、今も年配の人は覚えている。それは潜んでいる三九郎の
霊を歌で挑発して誘い出し、霊にとりつかれた子どもの大将に食べ物を無理やり食べさせ、霊の空腹を癒やし、水を浴びせて懲りさせ、その上で三九郎小屋を燃やして霊を昇天させたのだろう。
三九郎は、改易された石川康長の霊を鎮めるためではないか。
今三九郎は、子どもたちを守るものとなっている。」

      ▽      ▽      ▽


これが今回武居さんからいただいた資料だった。
武居さんは、信濃毎日新聞の切り抜きのコピーもくださった。
信州大学名誉教授の馬瀬良雄氏の記事で、『松本平のことば』のコラムに書かれた「どんど焼きで歌われた歌」であった。
記事には次の三種が掲載されていた。
上記の「みだらな歌」と書かれていた歌のことである。


「三九郎、三九郎、かかさのべっちょー なんちょーだ(どんなだ)。まわり まわりに けがはえて なかが ちょっと ちょぼくんで ワンワノワーイ」(安曇野穂高狐島ほか)
「きのう うまれた かめのこは とうさの ちんぼに くっついて かかさ なきなき おいしゃさま いしゃの くすりで きかなんでー さるの きんたまで やっときいた」(安曇野三郷小倉ほか)
「べんけいぼう べんけいぼう はじめて みやこへのぼるとき まどから けまらを つきだして となりの おかめに みつかって  ねったり すったり ころんだり ワンワノワーイ」(安曇野三郷長尾ほか)


昔子どもの世界では、どこの地方でも、それぞれ独特のこのような下ねたの歌が伝承されていた。
子ども組(子ども社会)が生きていた時代には、大人を垣間見て、ふざけて遊びの種にする子ども文化があったのである。
明治の時代に、このような歌はけしからん、教育的ではないとして、学校の校長が歌を作ったという。その歌は、

「三九郎、三九郎、じいさん、ばあさん、孫連れて 団子焼きに 来ておくれ」

というようなものだった。
以前は子どもだけで山から木を切り出し、三九郎のやぐらを組み立て、そこを基地にして 子どもらが遊び、もちを焼き、他の地区の三九郎を襲撃したり、他からの襲撃をふさいだりした。子ども集団が存在していたのだ。
しかし戦後はそれは危険だからと大人に禁止され、その結果、歌はなくなり、大人が準備し子どもは受身の、冒険要素の全くない今の形になってしまったのだろう。