火を焚く

 正月明けに行なわれる「三九郎」



薪ストーブの中で薪が燃えて、炎を見るだけでも温かい。
「かくらんの会」、アキオさんとヨウ子さんのフランスの旅報告は耳のごちそう、撮ってきた写真は目のごちそう、手作りの持ち寄り料理はたいへんなごちそうです。
ストーブの中に、伐採したリンゴ樹の太い幹が掘り込まれて燃えている。
人類が生まれてこの方、現代に至るまで、火は暮らしの中にあった。
燃える薪の火があった。
囲炉裏の火、かまどの火、風呂焚きの火、落葉焚きもあった。
それを囲んだ家族の団欒があった。
今はそれらは姿を消しつつある。
落葉を焚くこともできなくなった。


燃える薪の火は、炎ゆらゆら見えて、心もぽかぽかする。
大峰山・弥山谷の白砂の河原で、吉野川の源流で、大杉谷の深い渓谷で、
登山部の生徒たちとテントを張って火を燃やした。
谷間にはいくらでも流木があった。
太い枝を一本敷いて、その上に細い枯枝を並べ、火を点ける。
究極の燃やし方は、三本の太い枝を放射状に並べ、三本の先端が接する真ん中から炎が上がる。
火を囲むと、話がはずんだ。
みんなの頭上に、星空があった。


学校行事の林間学舎でも、必ず火を焚いた。
大きな薪をいげたに組み上げてのキャンプファイア。
数百人の生徒たちが火を囲んだ。トーチ入場、子どもたちは歌を歌い、点火の儀式をした。
火を讃える詩の朗読があった。
炎が夜空に舞い上がり、寸劇に歌、踊りにゲーム、子どもたちの出し物が続く。
キャンプファイアの終わりが近づくと、火守り役が火の勢いを弱めていく。
赤でもなく白でもなく、地面に積みあがった熾きは、少しの炎を残しながら輝く。
歌も歓声も収まり、みんなは沈黙のひととき、静かに瞑想し、夜空を見上げる。
ひとつのドラマが終わった。
キャンプファイアではいっさい石油は使わない。
原始からの火の神を迎える儀式に石油はそぐわない。


正月明けに行なわれる、全国各地でいろいろな形で残る「どんど」。
この地域では「三九郎」と呼ばれる。
暮らしの中に残る唯一の子どもの火祭り。
冬田に竹や松やわらが、尖塔のように組まれ、しめなわや書初めが中に入れられて点火される。
燃える「三九郎」を見ながら昔、子どもたちは歌を歌ったという。今はもう歌う子はいない。
火が落ちると、子どもたちは熾きの上で、小麦粉で作ったマユダマを焼く。
この行事も、次第に形骸化してきた。


原始に向かってさかのぼり、
大自然の魂に触れる「焚火」は、子どもの暮らしから遠くなった。
遠くなればなるほど、子どもは自然を失っていく。
病む子が増えていく。