富士山の原点とは

 富士山が世界文化遺産になり、登山者の増加が山の環境を悪化させていくことが懸念されている。
 積雪期の富士山に登ったのは19歳のとき、1957年の春四月だった。雪の多い年だった。一合目から雪は数十センチあり、単板のスキーのそりをザックにつけて、樹林地帯を登っていく朝から晩までのアルバイトに、山岳部の四人のメンバーのうち二人がばててしまった。雪は深く、ぼくは先行して、宿泊に予定していた五合目の佐藤小屋に着くと荷を置き、ばててしまった二人の荷を取りにまた雪道を引き返した。
 富士山五合目、そこまでのアプローチは、森の中をうねうねとひたすら登る、沈黙と忍耐の登高だった。小屋番のいない冬期小屋にはもう一つのパーティがいて、すでに食事を作って食べていた。クジラの肉のバター炒めがいい匂いを漂わせ、疲労困憊のぼくらはただクラッカーを食べて寝るだけだった。
 翌朝は快晴だった。小屋の周辺が限界線の樹林には、リスがたくさん枝や幹を走り回っている。堅雪の上をピッケルを持ち、アイゼンをつけて登る。そこからは白銀の大斜面が広がるばかりだった。
 富士山に登るということは、この五合目までの深い樹林を味わいつくすこと、それがあって、五合目から上の荒涼たる岩と砂礫の、見晴るかす眺望の世界に心がふるえる。
 それから7年後、富士スバルラインが開通した。1964年だった。樹林地帯が切り開かれ、舗装道路がついた。五合目までの登高は自動車になる。五合目が、登山の出発点になり、1合目になった。
 1965年夏、学校の同僚と富士登山を敢行した。5合目まで車でのぼり、8合目で泊まって頂上を踏んだ。別の年、一人で、五合目から、ほとんど廃道になった旧道を歩いて下ったことがあった。苔むした道の際に、石仏、道標など、昔の人たちの登山の跡が残っていて、この道のほうが人間の魂を感じるようであった。誰一人歩く人はいない。
 五合目までの自動車道路開通、それが聖なる山を観光の山にしてしまった。森を歩かず、森で禊ぎをせず、短距離をただ早く登ることだけになってしまった。
 富士山の現在の問題は、この自動車道の破壊がもたらしたものである。頂上を踏むものは、森林地帯の1合目から歩かねばならないという原点を失った以上、真の解決は難しい。登る人たちが原点に立つ以外に。

 同じころ、他でもこのような現象が起こっている。開発のうねりは全国に広がっていた。奈良県の秘境、大台ケ原もそのひとつである。かつて大台ケ原へは、麓の吉野川源流地帯、入之波(しおのは)、あるいは筏場から歩かねばならなかった。道は、原始林の道である。かつてニホンオオカミの棲息した、うっそうと茂る広葉樹の森である。その道を晩秋、たどったのは1953年だった。大台ケ原には、山小屋が一軒あった。小屋番はたった一人、囲炉裏のそばで火を燃やしていた。その山行は大台ケ原から縦走して、大峰山に登り、洞川に下った。
 やがて、その錦に飾られた神秘の縦走路に工事が始まり、1961年(昭和36)、「大台ヶ原ドライブウェイ」が開通する。かくて秘境・大台ケ原は車で訪れることができるようになった。悪名高いドライブウェイ工事は、道を切り開くとその土砂を谷側に投げ落とし、原始林は深い傷を負った。
 観光客は増加し、神秘の山は姿を消した。

 困難で時間のかかるアプローチ、その過程には、貴重な価値がある。それを省略することが文化の発展であるはずがない。しかし、日本はそれをやってきた。より便利に、より簡単に、より楽に、目的に到ろうとして、最も美しいものを失ってきた。
 登山人口を制限しよう、入山料を徴収しよう、宿泊施設を改善しよう、いろいろ意見がある。いずれも富士山をこういう風にしてしまった根本を問わない議論である。
 富士山が世界文化遺産になるなら、その登山もまた精神の原点に戻らねばならないと思う。