綿の栽培から機織物に <美濃縞>



羽島市の大寺、竹鼻別院の山門を出ると右に古民家が軒を連ねている。
その一軒で、機織りをしている伝承会があることを知っていた。
訪ねてきた愉理ちゃんに見せようと、そこをはじめて見学することにした。
入口に円空仏の木彫りが置かれている。
木の引き戸を開けて、
「こんにちは」
声をかけてみたら、奥に続く土間の横から顔がのぞいた。
「見学させていただけますか」
どうぞ、どうぞ、の声で、上がらせてもらう。
手機は十台ほど、畳の部屋に並んでいる。
江戸時代か明治のものか、その古民家の畳は古ぼけ、踏むと大きくへこむところもあった。
高齢の会長さんと熟年の方、合わせて4人のご婦人が機織りをしておられた。
以前、羽島市の文化センターでの作品発表展示会で見た伝承の美濃縞。
見事な織だ。
会長さんが織っておられたのは、
糸から柿渋で染めて織っていくという絣(かすり)だった。
「柿渋も手作りです。糸をそれで染めるとくっついて。それでばらしていかなければいけません。」
糸がくっついているのを、1本1本ばらしながら織っておられる。
綿も草木染めの染料も、1から自ら作っていくという、
昔ならがら徹底ぶりだった。
「綿は、そこの庭で栽培しています。」
一人のご婦人が、庭に案内してくださった。
長いたたきの土間を奥に行くと、吹き抜けの天井があった。
見上げると、黒い梁が高だかと頭上にある。
昼間でも薄暗い中に、昔ながらのトイレがあり、風呂があった。
「もう今は使っていません。」
壁が崩壊しているところもあった。
「この建物は、羽島市のものです。」
買い取ったものだという。
それにしては、あまりにも補修の手が入っていない。
庭に小さな綿の畑があった。
茶色の綿の花が咲き、実ができ、綿がはじけていた。
「会員の家でも栽培しています。」
「そうでしょうね。これだけじゃ足りないと思いました。」
藍も植えられていて、花を咲かせていた。
布を作るのに必要な綿も染料も自分たちで作り、
糸にしていく工程は昔ながらのやり方そのままなのだ。



「この貴重な伝承会の活動は、地域の教育として貴重な実践だと思います。」
僕が言うと、
会長さんが、
「先日、小学校の子どもたちが見学に来て、体験していきました。」
と、熱心に語ってくださる。
「こういう伝統の文化こそが、歴史や生活の勉強になります。子どもたちの教育の中に取り入れなければならないと思います。」
各地に残る伝承文化を、日本は極端に生活の中から切り捨ててきた。
地域の学校は、それらを見向きもしなかった。
そのことは日本の学校の深刻な欠落点だったと思う。
伝承文化は、子どもたちに、学ぶべき地域の民衆の長い歴史と人間の生き方を伝えてくれるものだ。
会長さんは嘆かれた。


「でもせっかく子どもたちが来ても、時間制限をやかましく校長先生が言われて、‥‥」
子どもたちは、もっとそこから学ぶことができたものを、時間にせかされてそそくさと帰らざるを得なかった。
企画した先生も、ちらとのぞき見る程度の学習にしかできなかったのだろう。
学校教育の柱となるものは何なのか、教育長も校長も分かっていない。


「文部大臣が見学に来るべきだと思いますよ。」
とぼくが言うと、
会長さんはてれくさそうに大笑いされた。