教師と教師、教師と子どもの人間関係



教師になって初めて教壇に立ったときのこと。
担任するクラスにS君がいた。
Sは口から生まれてきたような子で、思ったこと感じたことをすぐに口に出す。
授業中も、ぼくがしゃべっている最中であろうとなかろうと、お構いなしに発言する。
いきなり椅子から立ち上がり、質問するかとおもえば、反論のようなことを言い出したり、クラスの生徒に話しかけたりする。
1時間の授業は、彼の発言やおしゃべりによって何度も中断しなければならなかった。
もてあました新米教師のぼくはその度に彼に注意し、叱り、イライラが高じて二人の関係は悪化の一途をたどった。
こういう子に対して、どう接し、どう関係を作り、互いに気持ちよく勉強できるか、
まったくぼくには分からなかった。
ぼくは困惑し、疲労した。
それがたぶん原因だと思う、彼は転校していった。
彼の親が転校の判断をしたのだ。



学校には、いろんな子どもがいる。
いろんな教師がいる。
いろんな親がいる。
その多様性を知ることもなく、人は大学を出ただけで教師になる。
多様な人間によって構成されている社会を体験することもなく、
人間学を学ぶこともなく、
教師になる。
そしてぶつかる。
そのぶつかりに教師は傷もつくが、
児童生徒の傷は深くのこるだろう。



「人間と人間との関係」、
「人間と物との関係」、
「人間と仕事との関係」、
人生はほとんどそれらの関係に占められ、
それらの関係の中で、人間は育っていきもすれば、「うつ」におちいりもする。
関係がうまくいっていると、人生は楽しい。
やりがいが生まれ、いい仕事ができるようになる。
だが、
うまくいかないと心は折れ、挫折が見舞う。



感情の動物である人間は、「人間関係」に悩むことが多い。
教師の人間関係は、
「教師と子どもの関係」
「教師と教師の関係」
「教師と親の関係」
この三種類になる。
この三つを、うまくつくることができれば、
信頼関係が結ばれ、仕事もまた実りあるものになっていくだろうが、
現場にはさまざまな困難が待ち受けている。
教師になるまでの人生において、
集団のなかで切磋琢磨し、自己を発揮し、自己をつくる経験のない人が、いきなり教師になり、
職場集団のなかの人間関係にもまれると、
自己を確立するどころでなく、あれよあれよと思う間に、流されていくことが多い。
そうなりがちなのだ。
職場がそうだから、みんながそうだから、
それに合わせていくだけ。
流されず、自立した百戦錬磨のつわものに、なかなかなれるものではない。



「先生なんか、大嫌い」
子どもがそう思うと、教師もこの子どもの感情に縛られてしまい、
この子は嫌いだ、という感情に縛られてしまう。
悪感情は自分を冷たく固め、相手を冷たく縛ってしまう。
冷たい関係が硬直すると、どうにもこうにもいかなくなる。
両方とも疲弊するが、打撃は子どものほうが大きい。



ここからどう抜け出るか。
自分を縛っている悪感情を取り除くには、
客観的に自分と相手を認知することをやってみるしかない。



ある生徒の家庭訪問をしたことがあった。
母親と生徒を前にして話していると、母親は子どものことをくどくどと批判し始めた。
それをたしなめたのだが、子どもは話の途中で外に飛び出し、
それからだった。誤解した彼女は口をきかなくなった。
「先生のせいだ」。
反抗の眼差しが続いた。
それを解きほぐそうとしてくれたのが、第三者の教師だった。
生徒の不満を聞き、あなたの担任の先生は、あなたの思っているような人ではないと、はっきりした認知のアドバイスをしてくれたのだった。



仲間の教師との人間関係を深めていくことの大切さ。
そして自己の感情のコントロールをやれるようにしていくこと。
生徒の教師であるならば、
そのことができなければ、教育活動そのものが成り立たなくなる。
ぼくには苦い経験があり、その記憶がいくつも頭に浮かぶ。


現代、人間関係に弱い子が増えているように感じる。
教師になる人も、人間関係に弱い人が多いように感じる。


教師になるまでに、そのような訓練や教育をやることが必要だと思う。
そして教職に就いてから、現場の学校で、そのことが研修できるようにしなければならないと思う。
思えば、あのとき自分をしばった悪感情には正当な理がなかったと、
それをはっきり思い出す。
「腹が立つ」「嫌いだ」、この感情、
その感情には道理がない。
自分を認知することを感情がにぶらせた。
マイナス感情に左右されない、そういう自分をつくっていく過程が、教師になっていく過程なんだと思う。